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死を想い、いまを生きる

先日、雨のふりしきるなか、お世話になっているお寺の法座(寺で定期的に開催される仏教行事)に参加してきました。

浄土真宗の法座には、たいてい「布教師」と呼ばれる法話専門のご講師が来られます。この日は女性僧侶の方がお見えでした。

この日のテーマは「仏教婦人会のメリット・デメリット」。いつもの ”仏様のお話” とはおもむきの異なるタイトルにびっくりしましたが、内容は大変すばらしいもので、あまりに感動して帰宅後もずっとそのことについて考えていました。

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「私たちは、何のために生きているのでしょうか? 生まれて喜ばれ、病んで嫌われ、老いて捨てられ、死んで忘れられる。そんな私たちを誰ひとり残さず、かならず仏にすると誓われたのが阿弥陀様です」

年末に実家でお仏壇の掃除をしていた時、昔の人が亡くなった時に書かれたと思われる、古い法名の札がたくさん出てきました。その中には、0歳のこどもの札も2枚ほど入っていました。

かたや、100歳を超えても健在であることが珍しくなくなった現代。災害などのない限り、日常で死を感じることはほとんどありません。

これを読んでくださっている方がおいくつかはわかりませんが、「自分が死ぬ」ことを想像できるでしょうか? いつかは死ぬとわかっていても、目の前のこと、都合のいいことばかりに目を奪われて忘れてしまう。
「まだ若いのに、そんなこと考えられない。興味もない」
私自身、そんな風に思っていました。
だけど、人は生まれた瞬間から死に向かっています。

昨日、友人から、若い知り合いに突然の不幸があったと聞きました。詳しいことはわかりませんが、誰もそんなことになるとは予想していなかったでしょう。

元旦の大地震のことは、言うにおよびません。

私もかならず死ぬんだ…。そう思うと、ただかなしい気持ちになります。
また、大切な人たち、特に離れて暮らす両親のことを思うと、その日が来たらどうなるのか想像もつきません。

ただ、そこにこそ阿弥陀如来の存在が、大きな力をもって立ち上がってきます。

「命つきた瞬間に、浄土に生まれ仏にならせていただく」。浄土真宗では、このように阿弥陀如来の救いが説かれます。

浄土? 阿弥陀如来? ……現代人が信じるわけないじゃない。
ごもっとも。私もそうでした。
だから、お聴聞(お坊さんの話を聞くこと)を続けるのです。

私たちは死んですぐ浄土に生まれ、再びこの世に還って縁ある人々を救う。
このことを「往相還相(おうそうげんそう)」と言い、浄土真宗でもっとも大事な教えのひとつとされています。

SDGSの目標として「誰ひとり取り残さない」ということが言われますが、阿弥陀如来の救いほど、それをかなえているものはありません。
死後の「行き先」があればこそ、今を安心して生きることができるのです。

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帰るころ、雨は上がっていました。
すべては移り変わっていく。
その中で、ただひとつ変わらないのが仏様の救いだと思うのです。

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