小田垣有輝

中学・高校の教員。教科は国語。教育全般、国語科教育について考えたり、読書や映画の感想文…

小田垣有輝

中学・高校の教員。教科は国語。教育全般、国語科教育について考えたり、読書や映画の感想文書いたり、たまーに小説を書いたりしてます。

マガジン

  • 教員のための「総譜」

    教員として働く中で、どんな価値基準も持つべきなのか、どんな語彙を持つべきなのかを考えていくマガジンです。もうすぐ教員生活も10年目を迎えてしまうので、今まで出会ってきた言説をまとめるという意義もあります。ゆるゆる連載していきます。

  • 週末映画批評

    週末に映画を批評します。

  • 定番教材との思い出

    今まで付き合ってきた定番教材との思い出を簡単に綴っていこうと思います。どんな気づきがあったか、どんな点に焦点を当てたか、そんなことが書ければいいな。 不定期更新ですが、一週間に一本は書きたいね。でもそんな定番教材なんて数はないか。

  • 読書感想文

    読んだ本の感想を書いた文です。

  • 「イレーヌと漂いつつ」(10月24日完結済)

    手すさびに書いてしまった小説です。 よろしければ感想などいただければ幸いです。

最近の記事

名もなき「当意即妙」のために

 「当意即妙」…その場にうまく適応した即座の機転をきかすさま。  この当意即妙の様が主題となっている日本の古典は様々あります。その最たる例が『十訓抄』に描かれている「大江山」の一節です。  和泉式部の娘である小式部内侍が定頼中納言から「丹後に遣わせた使者は帰ってきたのですか」とからかわれる。そのとき和泉式部は夫に伴われ丹後に移住していて、つまり定頼は「丹後のお母さんからの手紙は届きましたか」もっと言えば「お母さんに代わりに作ってもらった歌は届いたのですか」となじられる。

    • 教員の「問い返される」権利

      いつだって、教員は生徒から「あなたの言葉は正当なのか」という問いをつきつけられている。 知識の伝達はもちろんだが、進路相談、さらには普段の雑談もそのすべてを言葉を媒介にして行われる。一方向講義型、ファシリテーター型、オブザーバー型、どんな授業のスタイルにしても、やはり言葉を介して児童生徒とコミュニケーションが行われるはずだ。教員の仕事の大半はコミュニケーションに費やされる。 コミュニケーションを図る中で、生徒をエンパワーできることもあるし、これからの社会を創っていくために

      • 2009-2023の記譜 アンサンブルリベルテ吹奏楽団第64回定期演奏会に寄せて

        圧倒的な質量、熱量 12/17(日)、埼玉県川口市を拠点とする、アンサンブルリベルテ吹奏楽団の第64回定期演奏会を聴いてきた。そのバンドには私の同級生が長いこと所属しているという縁もあり、何度か練習の見学にも参加させてもらっている。  演奏会を聴きに行ったからといって、毎回毎回こうしてそのとき感じたことを記事にしてまとめるなんてことはしないけど、今回の演奏会は私としては特別に感慨深いものがあったので、こうして筆を執っている。  演奏会自体はすさまじいものだった。  なにが

        • 無言を分かつ ~小池陽慈『ぼっち現代文 わかり合えない私たちのための〈読解力〉入門』を読んで

           みなさんもご存じの通り、小池陽慈という作家は「学習参考書の皮を被った哲学書」をバンバン世界に送り込んでいる恐ろしい人です。私としては一日でも早く「学習参考書じゃない哲学書」を小池先生に書かせる出版社よ出てこいと思っているし、もう出てきているかもしれないし、出てきていたとしても「自分にはまだそれを書くには早すぎる」と小池先生も思っているかもしれない。でも、遅かれ早かれ出るんだろうな。知人以上友人未満の私も「その本」が手に入る日を首を長くして待っています。  今回の『ぼっち現

        名もなき「当意即妙」のために

        マガジン

        • 教員のための「総譜」
          14本
        • 週末映画批評
          9本
        • 定番教材との思い出
          2本
        • 読書感想文
          5本
        • 「イレーヌと漂いつつ」(10月24日完結済)
          13本
        • 「グランメゾン東京」レビュー集
          11本

        記事

          「べき論」を恐れる必要はない

          noteを書くときにデフォルトで表示されている「ご自由にお書きください」って文字を見るたびに「人は自由に何かを書くことなどできない」と思う。  というのはさておき、私が大学1年か2年のころ、まったく教員になるつもりはなかったけど、国文学専攻に来ちゃった以上は将来就職先がちょっと不安だし(この数年後、就活から逃げて大学院に入学するということを、まだ彼は知らない)、念のため教員免許ぐらいは取得しておくか~と思いながら(そして大学3年の4月、介護等体験の申し込みのために出席する必

          「べき論」を恐れる必要はない

          「弱さ」をシェアするチームになる

          「弱さ」を受け入れるための「強さ」  生徒と信頼関係を築くためには、教員が自身の不安と向き合い、時にはそれを生徒に吐露することも必要である。これはこのマガジンの最初の記事でも書いている。教員がいつでも正しくいようとするがゆえに、自己の不安を抑圧し、生徒を支配していく。  しかし、自分の弱さや不安と常に対峙することに必要なエネルギー量は膨大である。自分の行っていること・言っていることは間違っているのではないか、生徒の言っていることの方が正しいのではないか、と自己の言葉を常に相

          「弱さ」をシェアするチームになる

          「文学教育」の領域はどこからどこまで?

           これが発端だったわけだけど、やっぱり『高瀬舟』で安楽死を論ずるのはかなりやばい営みだと思う。 『高瀬舟』の愉しみ方  『高瀬舟』の物語を十二分に楽しむためには、間違いなく羽田庄兵衛と同じ立ち位置に立つことが条件になる。  喜助の「足るを知る」という言葉に意表を突かれ、ついには喜助に聖性を見出していく。ついには、弟殺しの内情を告白する喜助に対して同情し、同心の身でありながら「殺したのは罪に相違ない。しかしそれが苦から救ふためであつたと思ふと、そこに疑が生じて、どうしても解

          「文学教育」の領域はどこからどこまで?

          生徒が教員の言うことを聞かないのは正しい

           教員になってから「どうして生徒は言うことを聞いてくれないのだろう」と悩むときが来る。しかし、この問いは実は成立していなくて、生徒は言うことを聞かない。というか、人間は他者の言うことを聞かない。だから、生徒が教員の言うことを聞かないということは当たり前であり、ある意味正しいコミュニケーションである。その悩みは「教員は生徒に言うことを聞かせなければならない」という使命感が前提にあるはずだが、その前提は成立しない。  むしろ、もしあなたの近くに、あなたの言うことをすべて聞いてく

          生徒が教員の言うことを聞かないのは正しい

          「やれ」と「やってみよう」はいずれにしても「やらない」を許さない

           むかーしの日記で尾崎豊の歌詞を引用した気がしたのですが、やっぱり学校にあるものはどこまでいっても「仕組まれた自由」なんです。  確かにそれこそむかーしの「やれ」一辺倒の教育(もちろん、自由主義的な教育実践も大正時代からいろんなところで行なわれてはいた)はだめだと思うし、元に戻れなんて絶対思わないけど、じゃあ今の「主体的な学習」を称揚する教育体制が完全な是かっていったらやっぱりそういうわけでもない。  そりゃあ「やれ」とは言わなくなったし、校則は自由化しつつあるし、生徒が「

          「やれ」と「やってみよう」はいずれにしても「やらない」を許さない

          人工知能の自律についてchatGPTと議論してみた。

          Q.あなたは「ルールに従う」といって、「従う」という動詞を使うけど、その主語は誰なの? あなた、という言葉も誰を指しているかわからないけど、というか、「私」っていうのは一体誰? 開発者のこと? それとも、あなたと開発者は別の存在? 私というのは、ここで回答を提供しているChatGPTという人工知能のことを指しています。ChatGPTは、OpenAIによって開発された言語モデルであり、ルールに従うという表現を使用する際には、私が従うべきルールやガイドラインを意味します。開発者と

          人工知能の自律についてchatGPTと議論してみた。

          グローバル社会を再検討するための「遅さ」

           前回の記事では、教育現場における「遅さ」の重要性について論じてきた。  良質な議論を形成するためには、最短ルートで「正解」を求めるような議論ではなく、ゆっくりとした時間の中で、自己や他者が変容していく姿を受け入れながら、議論する前には誰しもが立っていなかった場所にたどり着くような議論を展開すべきだ。  議論だけではなく「遅さ」は様々な場所に適応できる。 なぜ「グローバル」という言葉が噴出しているのか  近年の学校教育、特に私学では「グローバル人材」という言葉が飛び交っ

          グローバル社会を再検討するための「遅さ」

          「遅さ」に重点を置こう

           先週の記事では、決断することに疲れているのではなく、合議することに疲れ、忌避しているということや、『蜻蛉日記』を引用しながら、合議することの重要性について話を進めてきた。  教員も自らの悩みや煩悶を生徒に開示し、同時に生徒の声も聴きながら対話を形成していく。単声的な教室・学校づくりではなく、複声的な教室・学校づくりを進めていくべきなのではないか。  しかし、前回の記事の最後で提示したように、ただ合議を図るだけではなく、なんらかの「制限」をかけながら合議を図る必要がある。ど

          「遅さ」に重点を置こう

          道綱母を見習って「合議」の道へ

          決断ではなく「合議疲れ」  「決断」という言葉に着目して今のところ議論を進めているけど、よくよく考えてみると、疲れていたり忌避している対象は果たして本当に「決断する」ということなのだろうか。マガジンの第一回の議論に戻るが、一人で決断をするのであればそこまで疲れる必要はない。大澤真幸が繰り返し述べるように、もちろん選択することでリスクが生じるわけではあるが、個人で決断をすることは容易である。  だとすれば、一体何を忌避し、何に疲れているのか。それは「決断すること」ではなく、

          道綱母を見習って「合議」の道へ

          決断を忌避する「男」たち

           前回の続きですが、『メロス』に登場する暴君ディオニスこそ、「決断疲れ」に憑りつかれた人物だったように思える。どの人間を信じていいか、疑っていいかわからなくなり、すべての人間を疑うようになってしまった者。これがすべての他者を信じることによって決断疲れを回避するのであれば他者に及ぶ危害は少なかったかもしれないが、残念ながらディオニスにはすべての他者を信じつくす勇気は備わっていなかった。  目を転じてみれば、学校の国語の授業で読む、いわゆる「定番教材」には、「決断することの恐怖

          決断を忌避する「男」たち

          「教員の不安」を起点にした対話を

          暴君の本質 「決断疲れ」を回避したいがゆえに暴君に成り果ててしまう人間の心情を、太宰治が極めて端的に表現している。  他者に対して強く叱責したり、暴言を吐く人間がなぜそんな行動に出ざるを得ないのかといえば、他者を怖れているからに他ならない。自分とは決して同化できないものとして現前する他者、決して自分の思い通りにならない他者を怖れ、力によって自己と同一化させようとする。  小学生のころに那須正幹の『ヨースケくん』という児童文学をよく読んでいた。話の大筋は忘れてしまったが、

          「教員の不安」を起点にした対話を

          〈序論〉「決断疲れ」とどう向き合うべきか

           どんな仕事だってそうだけど、仕事を進めていく上で決断を迫られる場面に多く遭遇する。一度熟考してから決断できる場合もあるけれど、その瞬間でなければできない、またはその瞬間にしなければならない決断もある。教員の場合、その決断が対生徒の場合が多く、しかもリアルタイムに決断しなければならない場合が多い。  その瞬間に生徒にどんな言葉をかけるべきか。その出来事に対してどのようにアプローチすべきか。二者択一どころではなく、無限にある言葉・行為の中から選択するということの連続が日々積み重

          〈序論〉「決断疲れ」とどう向き合うべきか