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K倶楽部の中でぐるぐる考えたことを酔った頭でつらつら書いたとりとめのない文章

どうして私がK倶楽部に参加している??

 お久しぶりです、神楽坂ちゃんです。
 本日は国語教育勉強会の「K倶楽部」に参加させていただきました。知的好奇心喚起させられまくりで、「4時間って結構長いのではないか?」と思いながら参加しましたが、めちゃくちゃ短く感じました。一方で、頭をフル回転させながらみなさんのお話を聴いていたので、めちゃくちゃ体力使いました。

 大学時代「先生になる気はないが、とりあえず単位とって実習に行けば免許がもらえるらしいから教員免許くらい取っておこう」という理由で免許を取り、「仕事したくないから大学院行こう」という理由で内部進学し、「他にやりたいこともないけど、小説で飯食えるなら先生になろーかなー」という理由で教員になった私が、このような刺激的な勉強会に自ら参加するようになるなんて、私自身夢にも思っていませんでした。

 30歳を手前にして子どもが生まれるとも思っていませんでしたし、私の人生は私の予想をはるかに超える動きをしてくれて飽きないなぁと私自身に感謝しています。

なぜ人々は読書をしなくなったのか

 今回のK倶楽部のテーマは「読書と読解力」でした。国語教育において「読書」という営みは切っても切り離せません。他の先生方も児童生徒と読書をどのように繋げればいいか、ということに苦戦している様子でした。

 私が思うに、若者だけではなく、人々が活字に触れなくなったのは、非常に端的な理由で「本を読む必要がなくなったから」だと考えています。
 
 情報は端末で検索すれば容易に手に入ります。ストーリーに関しては本を読んで自分で情景を思い浮かべなくても、映画・テレビ・動画で他者が映像を作ってくれます。情報を仕入れるにしても、エンターテインメントにしても、人々にとって「読書行為」の上位互換にあたるものが発生してしまったのです。

 しかし「人々が読書をする必要性を感じなくなった」ことと「この時代では読書をする必要性はなくなった」ということは全く違います。このお話の落とし穴は「読書行為では現代においても他のメディア・デバイスではできない体験をすることができるのに、それに気づかないまま読書行為の必要性を感じられなくなること」だと思います。

 だから我々国語教員は「読書をする理由」を定義し、発信する必要があります。「定義する」ことが非常に大事で「読書をすれば心が豊かになる」なんていう抽象論では生徒には響きません。

 たとえば『こころ』という小説て、映像化されてしまったら小説『こころ』とはまったく別物になってしまいます(何度かされていますが)。語り手「私」が自らの手記の中に先生の遺書を引用する、というものは完璧に「書く」営みです。「書く」営みは小説を読むことでしか追体験することはできません。

 現代作家では今村夏子の小説は語り手のある種の暴力性を駆使して物語世界を構築しています。芥川賞にノミネートされている「むらさきのスカートの女」も、語り手である「権藤チーフ」の一人称視点で全て描かれながら、語り手の強固なバイアスの中で読者は世界を見ていく。というか、語り手のバイアスを通してしか世界を見ることができない。こういう偏った体験も小説を読むことでしか体験できない。

 どのメディアにも長所があります。映画には映画、音楽は音楽、読書には読書のおもしろさがあります。しかし、読書行為はあまりにも自明視されていたこともあり、そして映像があまりにもコンビニエンスであるから、読書の長所が未だにいろんな人に実感を伴って伝わっていないのかなぁと思っています。
 そのためには私は「文学理論」を通して、どのように小説を分析するのか、テクストというものはどのようにして織られていて、読者はどのように受容して、どのように相対化するのかを学ぶ営みを国語教育の場でも発信していく必要はあるのかな、と思います。

イメージをアウトソーシングする

 そういう意味でいえば、今回のK倶楽部の議論で「読書において情景をイメージできることが大事だ」という意見があり、それもすごく大事だ、と思う一方で、映像全盛の現代においては、自分の風景の語彙でイメージするよりも、優秀な映像作家が描き出す映像を見た方が、容易に精密な情景を手に入れることができます。自分でイメージをせずに、他者にアウトソーシングし、他者の語彙で行われた映像を鵜呑みにするのが現代です。

 この前、伊集院光が「エロカセット」の話をしていたことを思いだしました。K倶楽部の話の中でわい談を展開するのは憚られるのでは詳細は省きますが、エロ産業にも想像力の欠如は見られます。性的興奮を得るために、自分の内言を用いて映像をイメージする必要が現代ではほとんどなくなってしまった。

 「文章を読んでイメージしろ」というのはかなり効率が悪い指示です。「だったらgoogle画像検索でその情景を調べます」と言われればそれで終わりかもしれない。しかし、自己の内言による情景描写は、他者の内言を推し量る能力を培うための手段になるとも思います。やはり、映像を見るだけではなく、文学において比喩から情景や心情を推し量る力というものはこれからも大事になっていくはずです。

「書くこと」と「読むこと」

 K倶楽部でも言わせていただきましたが、私は読書が著しく苦手です。
 これだけ科学技術が進歩していて、中世では鎌倉から京都までいくためには20日かかっていたものが、現代では新幹線に乗れば2時間で着き、リニアモーターカーの開発によってさらに時間が短縮されようとしている。
 にもかかわらず、読書行為は石に文字を刻んでいた時代から変わらず、一文字一文字読んで、文を理解し、全体の構造を把握しています。どれだけ高性能のデバイスが開発されても、読む行為のスピード自体はまったく変わりません。これってすごい不条理だと思いませんか???? 私は「読書行為に変わるものがないから仕方なく読書に勤しんでいる」のであって、読書行為に代替できるものが見つかったらいち早く放棄したい。

 そういう私の怠惰な性格もあるので「読書する=読解力」という等式はあまり立てたくない。今回も「幼児時期における読書行為の確立」の必要性が議論されていましたが、やっぱり読書が苦手という人もいるし、幼児期にまったく読書をしなかったけど、読書をする必要に迫られる人も多いはずです。

 だからこそ、私は「書く力の向上」によって「読む力の向上」を目指すという視点は大事だと思います。読むことが苦手なら、自分で書いてみて、書き手の心理を推し量るんです。例えばこんな心理の動きが書き手にはあると思います。

●「この主張は結構センセーショナルだから、一番最初の形式段落で主張し、読者の頭にクエスチョンマークを発生させる。その後に論証することで、そのクエスチョンマークをエクスクラメーションマークに変えよう」

●「まず最初にじっくりと現在の課題を考察し、構造的な欠落を明らかにする。そうすれば読者にも『なるほど、そういう問題があるのか』と問題喚起をすることができ、問題が実感されれば、その問題に解決に向けて筆者に共感しながら読むことができるはずだ」などなど…

 書き手の心理は読むよりも書く方が理解しやすいはずです。同じ理由で、小説も書いてみる。エッセイ形式でも、私小説でも、完全な虚構でも、言語によって世界を構築させる。その世界を表現するには、どんな言葉を使わなければならないのか、と書き手の心理を獲得し、言葉への感覚が敏感になっていく(はず)。

 だから私は、目的を明示することができるのならば、読書感想文を書くことに関しては賛成の立場です。本文への批判、読むことの喜びの具現化、自分の人生との比較、書く行為を通して自己を顧み、そして書き手の心理を推し量ることができる。
 先日書いたアクティブラーニングの記事に関しても「仮説を立て、論証する」という営みも「書く」営みであり、自分で仮説を立てる経験を積めば、他者が仮説を立てて論証をするときに、自分の経験を応用することができます。

「読み書きそろばん」という言葉がありますが、読むこと、書くこと、そして数理的思考というのは大切であり、それは時代を超えて普遍なのだな、と思います。
 もちろん、私のこの文章は何にも構成を考えずに思いついたことをだらだらと書いているものであり、まったく模範的な仮説→論証の文章ではありません。しかし、自分で書いた文章を読み直し「じゃあどのように書き直したら他者に伝わりやすくなるのか」という観点で書き直す営みも非常に効果的だと思います(さりげなく譲歩強調構文を使ってみました。場当たり的)

 と、いろんなことを考えさせられた勉強会でした。次もぜひぜひ参加させていただきたいです…。

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