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「文学国語」の可能性① ―「学習指導要領」の読書感想文

めちゃくちゃにけなされる新学習指導要領

 平成30年に告示された高等学校「国語」の学習指導要領がぼっこぼこに叩かれている。それはそれは多方面からお怒りの声を浴びせられていて目もあてられない状況になっている。
 特に国語教育界隈の怒りを買っているのが選択科目「論理国語」と「文学国語」の分割から生じる諸問題だ。

 これ見よがしに選択科目になった「文学国語」は囲い込まれた希少種の扱いで、いずれ芸術系の科目へ追いやられる運命にある。「人生を教えない学校」で、せめてもの救いであった「国語」から物語や言葉の快楽を感じ取る機会がなくなろうとしている。
 紅野謙介「教科書が読めない学者たち」(『文学界』九月号 2019)
 本来、学習指導要領は「論理」とは何か、「実用」とは何か、という点から記述すべきです。ところが、すでに引用したように、「論理」や「実用」を持ち込むために指導要領の執筆者が行っているのは、表層的な形式にこだわることだけ。「法令文・記録文・報告文、宣伝文等」といったものを読めば「論理」が鍛えられるといわんばかりです。こうしたことからも、「論理」や「実用」についての十分な考察が行われていないことがうかがいしれます。
 阿部公彦「「論理的な文章」って何だろう?」(『どうする?どうなる?これからの「国語」教育』幻戯出版 2019)
 国語教育の目的が、社会で実効力を持つ情報伝達や意思疎通のスキルに著しく特化されていることが分かる。もちろんそのような能力を育てることが、国語教育として必要不可欠であることは否定できない。しかし、それを修得する手段から「文学」が徹底的に排除されている点に、バランスを欠いた一種意図的な偏向を感じられるのだ。
 清水良典「「高ため」のプリンシプルから」(『どうする?どうなる?これからの「国語」教育』幻戯出版 2019)

 まさにフルぼっこ。「論理国語」という科目への強烈な批判、そして「論理国語」から「文学」が排除されることによって、そもそも国語教育の場から「文学」から排除されるのではないか、という強い懸念があらゆる識者から示されている。

 学習指導要領の「論理国語」の項目を実際見ると、「ここでの文章の種類とは、特に図や表を含む複数の資料とともに記された、論理的な文章や実用的な文章のことであり、小説、物語、詩、短歌、俳句などの文学的な文章を除いた文章の種類を言う」という文章が五回も出てくる。もうこの文章作ってる人、小説にブチキレてますよね。絶対怒りながら作成してる。恨みつらみがひしひしと感じられる。もはや同情したくなるレベル。
 
 この辺の国語教育に対する恨みは大滝一登だったり新井紀子だったりの文章を読めばさらにひしひしと感じられる。この人たちはいろんな国語の先生が批判しているので今更あげつらうことはやめておく(最近は建設的な意見提案よりも新井紀子自身を叩きたくて叩いている人がいる感も否めないからだんだん冷めてきた)。

石原千秋の提言を見直してみる

 私がこの「論理国語」と「文学国語」の設定の知らせを聞いて真っ先に思い起こしたのは石原千秋の言葉だった。石原は従来の国語教育は「道徳」の一部になっている、と批判しながら

 現在の日本の国語教育はあまりにも「教訓」を読み取る方向に傾きすぎているので、それを是正するために、現在の国語を二つの科目に再編することである。
(中略)
 一つは、まず文章や図や表から、できる限りニュートラルな「情報」だけを読み取り、それをできる限りニュートラルに記述する能力を育て、さらにその「情報」の意味について考え、そのことに関して意見表明できる能力をも育てる「リテラシー」という科目を立ち上げることである。
(中略)
 もう一つは、文学的文章をできる限り「批評」的に読み、自分の「読み」をきちんと記述できるような能力を育てる「文学」という科目を立ち上げることである。
(中略)
 今後の学習指導要領は、改訂されるにしたがって、国語教育からますます文学を消し去る方向へ進むことはほぼまちがいない。だとすれば、文学教材を単なる道徳教材としないためにも、また実質的に消滅させないためにも、「文学」という科目の立ち上げは必須となるのである。
 石原千秋『国語教科書の思想』(筑摩書房、2005)

 もはや、文科省の官僚はこの石原の提言を見て今回の指導要領を作ったのではないか、というくらいに現在の政策と一致している。「リテラシー」が「論理国語」、「文学」が「文学国語」として編成されている。
 ただ、石原は産経新聞の「文芸時評」で紅野の『国語教育の危機』(筑摩書房)を紹介しながら、大学入学共通テストや学習指導要領を酷評している。枠組みとしては一致しているものの、石原が目指した教科の理念と、学習指導要領が目指すものが一致しないからだ。
 石原が重要視するのは「文学」の授業における「批評」性だ。教師が一方的に「この作品はこう読め」と解釈を押し付け、その解釈を理解することが従来の国語教育であれば、これからは一人一人の生徒が多様な読みを展開していくこと、つまり「批評」することができる場を設定するべきだ、というのが石原の意見である。
 しかし、大学入学共通テストの記述問題などを指して以下のように批判する。

 新テストでは、役所が作成したとされる文書を読ませて記述で解答させるのだが、それに批判は許されない。〈お上の言うことは正しい〉という大前提で解答しなければならないのだ。これはもう道徳教育どころではない
 石原千秋「文芸時評」10月号(産経新聞 2018.9)

 もっともな指摘である。一方向から提示された書類などを批判的に読むことは許されずにただ情報を処理するという営みは、まさに石原が「道徳教育」として批判してきた営みと似ている。

「情報」と「文学」という二つの科目を設定してはどうか、と提言した石原にさえ見放されてしまう今回の教育改革。「文学が消えちゃうなら、「文学」っていう科目を新設しようよ」と石原に言われていたのに、新設されたらされたで紅野からは「今回の指導要領の改訂によって文学が消されるぞ!」と言われる始末。

教育改革に救いはない?

 大学入学共通テストもソフト面でもハード面でも瑕疵が多すぎる。指導要領の改訂によって実用的な文章ばかりが称揚され、「文学」がますます姿を消す一方…。本当に今回の学習指導要領の改訂には救いは全くないのか。

 私はそうも思わない。
 劣悪と言われる指導要領の改訂によって「できるようになったこと」もあるのではないか。
 そこでスポットライトが当てられるのが、まさに今回窮地に追いやられた「文学国語」なのではないか。

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