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「アクティブラーニング」と、どう付き合っていく?⑥(終)

 いい写真です。今年のお正月の写真ですね。風邪が治りかけたこどもちゃんと、こどもちゃんから風邪をうつされて鼻水びーびーになりながらこどもちゃんに着いていく私。なんでこどもって風邪ひいているのにあんなに元気なんですかね??? 

 ということで、長い連載も今回で最終回。今回はまじで最終回です。もう書くことないです。いや、まぁ自分のやってることの整理のために書いてるから終わりも何もないんだけど…。

 今回は全体のまとめとして、そもそもなんで私が対話的・交流的授業に必要性を感じているのかというところを明らかにし、「アクティブラーニング」と呼ばれる能動的学習の姿勢を養うためには何が必要なのかを考えてフェードアウトしていこうと思います。今回は多分引用多めです。

「市民協働」の実現へ

 私は「主体性」は「亡霊」だと思っていた。学校で求められる「主体性」は「学校や社会が要請する生徒像に自発的に適応していく能力」だと思っていたし、今でもその考えは捨てきれてはいない。
 特にe-portfolioの導入に伴って(どこまで入試制度の中で重要視されるかはまだ不透明であるが)、生徒は学業成績だけではなく、学校生活の全範囲が評価対象となった。自分が部活動で何をして、そこでどんな失敗をして、何を学び、どう解決したか、という「ストーリー」が求められる。自分の経験を「主体的に」体系づけ、そしてアウトプットする。
 そんなもの「主体性(があるように装う態度)」じゃん、と掃いて捨てようとしていた。しかし、岡本真の文章を読むことで「主体性」の考え方に転機が訪れた。

人手不足のため行政では賄いきれず、安い民間に行政サービスをまわす手段もいずれ破綻する日が予測されるような現状において、最も有効な手法は「市民営」であると思います。ニューヨーク公共図書館のように、自治体はお金は出すけれども、市民自らが運営主体となるというスタイルは、図書館の経営を市民の手に取り戻すことにもつながるのではないでしょうか。(『現代思想』図書館の未来 岡本真「図書館は民主主義の学校である」青土社)

 岡本真はアカデミック・リソース・ガイドの代表であり、日本各地の公共施設の運営に関するプロデュースを行なっている。岡本は図書館の運営だけではなく、「民主主義・市民協働の成熟」に重きを置いているように思える。別の書籍から岡本の市民協働への熱意が読み取れる部分を、少々長いが引用する。

 市民が協働に取り組むうえでの決め手になるのが、図書館という施設への「オーナーシップ」意識です。つまり、わがまちの図書館は私たち市民の財産だという意識、図書館はわがまちの広場であり、書斎であり、居間であるという意識です。図書館のあり方を「ひとごと」として行政任せにするのではなく、「私たちごと」として捉える意識が欠かせません。
 行政と市民が協働して、さらには市民による自治を進めるためには、行政と市民が対等である関係を築く必要があります。この関係を示す言葉として「イコールパートナーシップ」があります。行政と市民が対等かつ平等であることを認め合い、常に相手を尊重して振る舞えば、協働は実現可能です。反対に、行政が市民を見下し、また市民が行政を上から目線で見下せば、協働は永遠に生まれません。(岡本真『未来の図書館、はじめます』青弓社)

 非常に重要な提言である。図書館の運営を「ひとごと」ではなく、「私たちごと」として捉えて「運営主体」となろうとする意識こそ、「市民協働」に必要な意識である。
 私たちは、いつのまにか「主権」の座から降りて「行政サービス」の客体として振舞っていないだろうか。いや、この文章を書いている私もその一人だ。今現在、自分がどう振る舞えば行政の運営主体として振る舞えるのかはわからない。

 鷲田清一も「公共的サーヴィス」に関して次のように述べている。

 サーヴィス社会はたしかに心地よい。けれども、先に挙げた、生きるうえで欠かせない能力の一つ一つをもう一度内に回復してゆかなければ、脆弱なシステムとともに自身が崩れてしまう。昨今ひんぱんに起こっている違法建築や偽装表示などの不正や不祥事は、そうしたシステムを管理している者の責任感の欠如ぶりを表に出した。ナイーヴなまま、思考停止したままでいられる社会は、じつはとても危うい社会であることを浮き彫りにしたはずなのである。それでもひとびとはまだ外側からナイーヴな糾弾しかしない。そして心のどこかで思っている。いずれだれかが是正してくれるだろう。だがじっさいには、講義と弁明ばかりで、誰も責任をとろうとしない。(鷲田清一『わかりやすいはわかりにくい?』岩波新書)

 大衆は間違いを犯した他者を吊るし上げ、その他者を非難し、彼岸に置くことで自らの正当性を保証する。マスメディアの発達、SNSの普及に伴ってその潮流はますます激しくなっている。他者を貶めることで自らの価値を保つというやり方はインスタントでコンビニエントなのだ。今の社会に非常に即している。しかし、それでは「いつかだれかが是正してくれるだろう」というサービスの「客体」でしかなく、いつの間にか社会を分断する「主体」となる恐れさえある。

 今、必要なものは市民が主体的に行政運営、もしくは社会そのものの運営に「主体的」に携わり、よりよい社会を創っていく態度なのではないか。「主体性」とは、社会の側から求められることに受動的に身体を当てはめることではない。個人が主体的に社会構造を読み解き、現代社会が抱える課題をあぶり出し、解決の糸口を協働して見つけ出そうとする意識・態度こそが「主体性」なのではないか。
 学校教育、いや全ての教育機関の中で養うべき「主体性」はまさにその態度なのである。そして、その「主体性」の獲得に必要なのがアクティブラーニングであるべきなのではないか。

「主体性」の実現とアクティブラーニング

 多分、主体的に私たちが社会に働きかけることは難しいことではないのだと思う。
 もちろん、岡本真のように深い専門性を身につけ、起業し、行政サービスに助言をする、というレベルの行為は難しいかもしれない。
 ただ、市民の一人一人の小さな働きかけが社会を少しずつ動かしているのは間違いない。行政に関する仕事をしていなくても、また、職業に就いていない学生や高齢者であっても、「生きる」ことで僅かに他者に影響を与えている。「影響を与えよう」と思わなくとも、一つ一つの行動が間違いなく他者に働きかけているのだ。
 私も今は何もできないかもしれないが、生徒に「あなたたちは社会を動かす主体なんだ」と伝えることで、一人一人の行動様式を僅かに変えることはできるかもしれない。「社会を変えるのは選挙の投票だけじゃない。社会を変えるのは行政ではなく、あなたたちの一歩が社会を変えるんだ」と私たちは訴え続ける必要がある。

 これまで私が紹介してきた実践も、「主体性」構築を助ける手立てになり得る。社会構造を的確に「評価」し課題を見つけ出す。課題の解決に対して「仮説」を立て、その仮説を論証するために「論理」を構築する。そして、アウトプットし、それらの取り組みを振り返っていく。私の行なってきた実践は主にテクスト分析だったが、そこで培われる力は、社会を読み解くための力に必ずなる。
 そのために、時には講義式授業を受けることで、自分が張っているアンテナよりも外にある情報を「主体的」に手に入れる。そこで培った知識を用いて、他者と対話・協働を行いながら力をつけていく。講義式授業も、対話協働型の授業もアクティブラーニングなのだ。

教員に必要なこと

 認知心理学者、今井むつみは「探究人」を育てるために、親が必要とする態度についてこう語っている。

 どのような遊び、どのような絵本を選ぶのかは、子どもの発達のレベルによって変わっていく。子どもの発達に合わせ、子どもが最も楽しみ、想像をはたらかせ、探究できる遊びや絵本を選べるかは、親のセンスが最も問われるところだ。細部は決めすぎず、子どもに任せながらも大事な枠組みは親が決めることが大事なのだ。そのために、親は子どもの理解のしかたや楽しみ方を考え、子どもの個性と発達の段階に適した、いっしょにできる遊びを考える探究人でありたい。(今井むつみ『学びとは何かー探究人になるために』岩波新書)

 この文章の「親」を「教員」に、「子ども」を「児童・生徒」に、「遊び」を「授業」に変えれば、アクティブラーニングに必要な心構えに様変わりする。この心構えは、どの学校・どの教育機関にも必要なものだと私は思う。
 教員はファシリテーターにもなりながら、時には知識の供給者になり、さらには生徒と共に探究をする「探究人」でなければならない。その方が、教員も絶対に楽しい。

 そう、授業も「遊び」と本質は変わらないはずだ。知らなかったことを知って、考えたことのないことを考え、新しいものを創っていく営みは「遊び」であり、喜びを伴ってしかるべきことだ。そんな「学び」の喜びを教員は訴えながら、そして自身で喜びを体現しながら、生徒に伝える必要があるのではないだろうか。

 私も一人の教員として、学ぶことの喜びを忘れず、生徒と共有しながら、「主体性」を涵養し、市民協働の実現のために働いていきたい。 


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