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「アクティブラーニング」と、どう付き合っていく?⑤

 もう画像のアクティブラーニングとの関係のなさったら尋常ではない。こどもちゃんがベビーカーを押す姿です。見ればわかりますね。ジャンパーが渋いのにズボンがファンシーだからちぐはぐでかわいい。アンビバレンツを孕んでいる存在。

 さて、5回にわたりお送りしてきましたALについての連載。今回で一応最終回を迎えようとしています。しかし、この文章を書いていながらもこの先どういう展開になるのかはまだ定まっておりません。もしかしたら最終回その2に続く可能性もありますので、万が一そうなったら、この部分の後にお詫びのコメントをいれさせていただきます。そうならないように願いながら始めましょう。敬語終わり。ごめんなさい!!!!!! 終わりませんでした!!!!!! 今回は最終回その1です!!!!!!!!!!

生徒の「確固たる思想」

 これまで私は
 ①自ら論理を立てる営み
 ②仮説を立て実証する営み
 ③他者を評価する営み
の三つの観点から授業実践を行い、その実践についてまとめてきた。
 実践をする中で気づくこと、あるいは気づかされることは生徒の中にある「確固たる思想」と「道徳に対する従順さ」である。

 まず「確固たる思想」。生徒が小論文を書いたり、ノートを作ったり、他者を評価したりしている姿を見て、その言葉に触れると、生徒自身の中に確固たる「思想」があり、その思想に対象が当てはまるか当てはまらないか、と思考しているのだ。こんな当たり前なことに驚くのは私だけだろうが、授業を行う中で「すげぇこの人たちちゃんと考えてるな」というのが率直な感想だった。

 「何も考えが浮かばない」「どっちでもいい」「興味がないから考えたくない」という意見にほとんど出会ったことがないし、ディベートや対話を行ったとしても全てを放棄して授業に参加しないという生徒にも出会わない。もちろん私が担当しているのは高校生であり、授業を受ける姿勢というのはある程度確立できている。それにしても、思考・行動の放棄をする生徒の少なさには驚かされる。

『こころ』の論文実践でも、③で紹介した「復讐」のタームで『こころ』を解釈した論文だけではなく、多様な読みが提示され、代表作は印刷して生徒と共有した。ノートづくりでも、正直私の作る板書案よりも効率よく、そして高度なデザイン性を有するノートを提出する生徒もたくさんいる。

 そのような生徒の多様な思想には驚かされるばかりであるし、むしろ私の方がたくさんのことを生徒から学ばせてもらっている。鷲田清一も「おとなの常識を破壊するのは幼さと老い」とも言っているが、まさに私が自明視していることに対して、時にはラディカルな意見をぶつけ、私が抱える常識を揺るがす。

 生徒は思考する。多様な思考を有している。だからこそ、教員はその多様性を生徒から引き出し、新しい世界を構築しなければならない。というか、それが可能なのだ。「生徒はこんな難しいことを考えられない」「生徒のレベルではこの課題に取り組むのは無理だ」、そうやって生徒の限界を決めるのは大体教員の側だ。
 まずはスキルを模倣させる。ノートづくりもただ「ノートを作れ」というのではなく、最初は板書をしながら論理の抽出方法・図式の仕方を教員から提示し、それにのっとって、もしくはそれを「型破り」しながら生徒もノートを作る。論文作成でも簡単な論文のフォーマットを提示する。そうやって具体的なスキルを提示しながら、生徒に行動を促す。行動様式を知らなければ、行動することはできない。論理的思考も結局はフィジカルな行動だ。その様式を身につけさえすれば、論理を構築することも可能なのである。

道徳に対する従順さ

 と、ここまで生徒の多様な思考を称揚してきたが、その反面、考えなければいけない部分も多々ある。それは生徒の「道徳(イデオロギー)への従順さ」だ。

『山月記』を教室で読んだときに、初読の感想を書いてもらった。すると、「李徴のように自分の弱さを言い訳しながら努力を怠ってはいけない」という感想が続出する。
 教員から「このお話の寓意を受け取ってみよう」と言わなくても、生徒は物語から非常に的確に寓意を抽出し、勧善懲悪的に読み、そして「善」と思われる価値観に自分の思考を添わせる。

 これはまさに義務教育の中で行われる「国語≒道徳」授業の賜物であろう。もちろん、それが全て悪いわけではない。ただ、行動様式として「学校の教室の中で読む文章には、必ず道徳的な寓意が仕掛けられていて、その道徳的寓意を受け取り、実践することが国語の授業である」というものが刷り込まれていて、そこから脱却するのが(する必要が絶対あるかどうかわからないけど)非常に困難なのである。

 教育学者の小針誠はアクティブラーニングの問題点についてこのように述べている。

 とりわけ懸念すべき政治的な課題は、学校教育を通じて、時の国や政府の意図する道徳観、歴史館、社会観のみが子供たちに提示され、それらを積極的に育み、思想統制につながる自発的に従わせるための学習活動になっていくのではないか、ということです。(『アクティブラーニング 学校教育の理想と現実』)

 私はここで政治的な意図まで話を発展させるつもりはない。しかし、その時代のイデオロギーに「主体的に」「自発的に」「従わせる」道具としてこのアクティブラーニングは使われてしまう可能性は捨てきれない。対話や発表を行う中で、生徒は自身に刷り込まれた「寓意に着目する読み」を進めていき、自分が自明視しているイデオロギーを批判的に再考する機会と術をなくしてしまう。小針も次のように続けている。

 国語科、社会科、道徳科などの教科や単元によっては、これまで当たり前をされてきた常識、価値、前提、国のあり方や政策の是非を、多面的な視点から問い直す批判的な思考や学びが求められているのではないでしょうか。未来社会が不透明で予測不能であるというなら、むしろこうした批判的な思考力や態度こそ強く求められる「資質・能力」ではないでしょうか。(同上)

 なぜ他者と対話を行うのか。なぜ自分の言葉で対象を批評するのか。それは自分の中にある常識や道徳的読解のルールに対象を当てはめるためではない。それは自分の中にある常識や道徳を「疑う」ために行うのである。
 

 授業が持つ政治性は強い。教員の想定していない生徒の発言は「規格外」のものとして扱われなかったり、捨てられたり、時には無能の烙印を押されたりもする。しかし、特に国語の授業で本当に必要なものは「規格外」な発言・考え方ではないのだろうか。
 それまでの前提や常識を覆し、新たな地平線を開くために「教育」があるのだとしたら、常識の中から飛び出す思考は、ただの常識でしかない。常識を破壊できるのは、非常識だけだ。

 教員は、生徒を恐れてはいけない。教員の範疇から生徒の思考が逸脱することを恐怖してはいけない。教員が生徒を常識に閉じ込めさせてはいけない。
 教員が持っている信念を覆し、塗り替えるような思考こそ、本当に求められるものなのではないか。だから、そんな思考に出会ったときには、恐怖ではなく、喜びで迎えるべきだ。

 生徒は思考する。一方、時には道徳に従順すぎるときもある。
 生徒の中にある常識をもう一度問い直し、そして教員が持つ常識をも打ち砕く思考に巡り会う。そんなことが、「アクティブラーニング」の下で行われる授業では求められるのではないだろうか。


いやーーーーーー全部言いたいこと言い切れてないなー!!!!!! やっぱり次回に続くヨーーーーー!!!!!!!!!!

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