見出し画像

具体と抽象のあいだ

年度末ってこんな忙しかった?

 いや、毎年年度末って忙しいんですけど、今年の忙しさは尋常ではない。
 もう最近職場から帰って、ご飯食べて、こどもちゃんとお風呂入って、ちょっと遊んでたらいつの間にか寝てます。昨日に関してはどうやって寝室まで行ったかまったく記憶がありません。もう3年も働いているのに体が慣れていかないのはつらいねぇ。もうひとふんばり頑張らないと。

クロネコヤマトが猫に見える?

 そんなこんなで忙しい毎日ですけど、こどもちゃん(1歳10ヶ月、男性)との時間で癒しをもらっています。本当にかわいい。目に入れても痛くないっていうかもう毛穴とかにいれてもまったく痛くないですね。むしろ入れたいですね。疲れてますね。

 絵本を読むのも好きで、本棚から引っ張り出しては「読め」と私に突きつけ、お気に入りの座椅子に座って始まりの拍手をします。かわいい。
 そん中で、最近気になることがある。
 発達の中で「具体と抽象」がどこで身につくか、ということである。

 こどもちゃんの好きな本で『はじめてのどうぶつ100』という本がある。たくさんの動物が掲載されている小さな図鑑です。
 その本の1ページ目を開いて、こどもちゃんに「ねこはどれだ?」って問いかけるとぐるっとページを見回してから、写真の猫を指差す。逆にこの猫を私が指差して「これなぁに?」と問うと「にゃーん」と猫の鳴き真似をする。おそらく〈ネコ〉というシニフィエと「猫」という名称や身体的特徴というシニフィアンが合致しているということだと思う。

 そして不思議なのがクロネコヤマト宅急便のロゴマークを見ても、こどもちゃんはそのマークを指差して「にゃーん!にゃーん!」と猫の鳴き真似をする。
 言ってしまえば、クロネコヤマトのマークは「絵」でしかない。黒いペンキで書かれた染みでしかなく、現実の猫とはまったく乖離している。考えてみればペンキの染みを「あれは猫だ」と認識するのはある観点からみれば異常なことだ。
 それを絵であるかどうかこどもちゃんが認識しているかどうかは定かではないが、こどもちゃんは記憶の中で、マークの特徴と実際の猫の特徴の共通点を見出し、クロネコヤマトを「猫である」と認識しているのだと思う。

 つまり、具体的な「猫」の共通点を帰納的にまとめているのである。言語習得は演繹よりは帰納の論理が使われているはずだ。「耳が三角で、つり目で、体がしなやかで、にゃーんって鳴くのが猫だよ」という命題を教わって、それぞれの動物を個別で見て、「これは命題と合致する」「これは命題と合致しない」という認識ではおそらくない。
 たとえば親が猫を指し「猫だねぇ」と言う。そのコミュニケーションを繰り返すうちに、親が「猫」と指すそれぞれの動物の中に共通点が見出されていく。そのうち親がいちいち指さなくても猫の「耳が三角」「目がつり目」「にゃーんと鳴く」という共通点を内面化できれば、自分で「これは猫」「これは猫じゃない」と判別できるようになる。
 この作業の中でクロネコヤマトのマークも「耳が三角」「つり目」という共通点を当てはめて「あれは猫だ!」と判断し「にゃーん!」と鳴き真似をする、と考えられる。

 もちろん、こんな明確にプロセスを踏んで思考しているわけではない。ただ、メタ認知的に考えてみると、こう認識していると考えると説明がつく。
 個別の「具体」を通じて、そこから共通点を見出し「抽象化」していく。

抽象化の限界点

 同じ図鑑から、2匹の犬を引用。
 もちろん、このブログを読んでいる人にはこの2枚の写真の動物がどちらも犬である、ということはわかるはずです。

 しかし、こどもちゃんは下の犬(ダックス?)を「犬」と判別できません。
 この2匹は同じページにいて、「わんわんどーれだ」と聞いてみると上の写真の犬を指差し、上の写真を指差して「これなぁに?」と聞くと「わんわん」と答えます。

 しかし、「犬はどれ?」と聞いても、ダックスを指差すことはありませんし、またダックスを指して「これなぁに?」と聞いても「わんわん」とは答えません。つまり、ダックスのことを「犬」と認識できていない。こどもちゃんが持っている「犬」のシニフィアンと〈ダックス〉のシニフィエが合致していないということです。

 ただ、上下の犬の共通点はかなり少ないのは確かです。
 耳の形は全然違う、色も違う、目つきもちがう、顔の長さも違います。しかし、「大人」である私たちはダックスをみれば誰でも「犬」と抽象化できます。おそらく、それは私たちがダックスというものが犬である、ということを経験則で知っているからであり、こどもちゃんの「犬」のシニフィアンよりも私たちの「犬」の方が広義であることが原因だと思います。

 私たちが当たり前のようにやっている「具体」から「抽象」を得るという作業は、なかなかどうして高度な技術だなぁと改めて思います。最近オリンピックのピクトグラムが発表されましたが、断片的な丸や四角の羅列を見て「これはサッカーだ」「これは野球だ」と判断できたり、たとえばトイレに入るときに、青で表示が書いてあれば「男だ」と判断して入っていく。「青」と「男」を結びつける根拠を私たちは明確に理解していないが、「男」という具体を「青」という抽象と結びつけて生活し、多くの人がこのルールを暗黙に了解して社会生活を営んでいる。これってすごいことだよね。 

具体と抽象の精度を高める

 最後に学校の先生みたいな話に無理やり戻すのなら、評論文を読むのにも書くのにもこの「具体と抽象」を使い分けるという技術は絶対に必要です。評論文から抽象の部分を引き抜いてまとめれば自然と要約ができるし、文章全体がわかりづらければ具体の部分をよく読めばヒントにもなる。具体と抽象のどちらがか欠けている評論文はあり得ない(こともないけど)。

 これからもこどもちゃんの抽象力がどう上がっていくのかは、目が離せない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?