見出し画像

「文学国語」の可能性② ―「学習指導要領」の読書感想文

 「文学国語」は大きなメリットと欠陥をともに孕んでいるという両面性がある。みんなからけなされ続けているので、まずはこの教科のメリットを「書くこと」と「読むこと」を通して論じていきたい。

「文学国語」って楽しそうじゃない?? 

「文学国語」という科目は4単位で設定されている。高等学校の学習期間は基本35週であると考えると年間140時間組まれている。
 その中で何をするのかっていうと知識・技能では「エ 文学的な文章における文体の特徴や修辞などの表現技法について、体系的に理解し使うこと」を目標にしている。

 思考力、判断力、表現力等の項目の「A書くこと」では
「ア 文学的な文章を書くために、選んだ題材に応じて情報を収集、整理して、表現したいことを明確にすること」
「ウ 文体の特徴や修辞の働きなどを考慮して、読み手を引き付ける独創的な文章になるよう工夫すること」などの目標が設定されている。
 言語活動例には「ア 自由に発想したり評論を参考にしたりして、小説や詩歌などを創作し、批評し合う活動」が挙げられている。

 「B読むこと」についても
「イ 語り手の視点や場面の設定の仕方、表現の特色について評価することを通して、内容を解釈すること」
「エ 文章の構成や展開、表現の仕方を踏まえ、解釈の多様性について考察すること」などが目標として設定されている。
 言語活動例として「イ 作品の内容や形式に対する評価について、評論や解説を参考にしながら、論述したり討論したりする活動」などが挙げられている。

 正直、書いてあることだけ読み、そしてこのような活動が教室の中で展開できたら、めっちゃ楽しそうではないか。
 ナンシー・アトウェルのライティング・ワークショップのようなことはさすがにできないまでも、生徒が自由な発想の中で創作したり、創作したものを互いに批評したり、多様な解釈が許される場が学校教育の中に設定できるというのは、国語教育としては大いに意義があることだと思う。
「語り手」という物語装置も学習指導要領に初めて登場した(少なくとも現行の高校国語学習指導要領には「語り手」という言葉はない)。語り手に対する批評の目を携えて小説を解釈することまでも指導要領は視野に入れている。次の教科書に残るかもわからないけど『こころ』などの小説は「語り手」に対する批評が不可欠な作品である。

 従来の選択科目「現代文B」でも、書くことの指導の中には創作が含まれているものの、やはり評論を読むことが重要視され続けた(ちなみに筆者が通っていた高校では『こころ』も『山月記』も『舞姫』も取り扱わない。私は高校で『こころ』を読まずに育ち、今、国語教員になっている)
 そこから文学だけを取り出し、文学を創造する場が独自に設定できるというのは画期であることは間違いない。石原の意見とどこまで合致しているかはわからないが、とにもかくにも学習指導要領の中に「文学」が生きる場が設定されてあることはまず評価すべきではないか(問題もたくさんあるけど、それは後述)。

「虚構」を編むことで見えるもの

 「A書くこと」の言語活動例「ア 自由に発想したり評論を参考したりして、小説や詩歌などを創作し、批評し合う活動」の解説には、「自由に発想するとは、固定観念に捕らわれずに豊かに発想することである」とあるが、これは誤りといってもよい。創作をする上で固定観念から完全に自由になることはできず、むしろ、書くことで「いかに自分が固定観念から自由になれていないか」がよくわかる。

 登場人物の中に自分とは違う性(性的指向も含めて)の人物を設定する場合、自分と異なる性の人間をどのように捉えているのか、ということが文字として表れる。自分では意識していなかった思考が虚構によってあぶり出されるのである。
 または、学生ではなく職業に就いている人間を登場人物にして創作を行えば、その生徒たちが「実社会」をどう認識しているのか、「実社会」とどのような距離感を保ちながら生活しているのかもわかる。

 自覚されていなかった思考をあぶり出すためには、創作した虚構を他者の視線に曝す必要がある。解説にも「創作した作品について相互に批評し合うことによって、書き手は作者という立場からは創造し得なかった読み手の受け止め方を知ることができる」とあり、相互に批評し合うことで、自覚されていなかった社会通念や、常識を認識する契機になり得る。

 書くということは、伝えるためだけにあるのではない。自己の思考を客観視する上で非常に重要な要素である。評論や論文を書くだけでは出会うことのできない「自己」と、虚構を通して出会う機会を作り出すこともできるだろう。虚構による自己との出会いを「実用」と呼べば呼べるだろう。 

解釈する・評価することと「論理」

 今度は「B読むこと」の言語活動例「イ 作品の内容や形式に対する評価について、評論や解説を参考にしながら、論述したり討論したりする活動」に焦点を当てる。
 解説を読むと「論述したり討論したりする際には、必ず具体的な相手が存在し、その相手に向かって言語活動を行うことになる。その際には、相手の立場や状況なども把握して、自分の考えを分かりやすく伝えることができるよう工夫することが必要である」とある。
 
 この活動を行うためには絶対に「論理」が必要なのではないか?
 「論理国語」の「A書くこと」の目標に「ウ 立場の異なる読み手を説得するために、批判的に読まれることを想定して、効果的な文章の構成や論理の展開を工夫すること」とある。
 文学における多様な解釈を許容する「文学国語」での討論では、今挙げた「論理国語」の技能が必要になる。
 つまり「文学国語」で解釈をぶつけ合う中で、論理を組み立てる力は備わるのではないだろうか。
 
 以前、アクティブ・ラーニングについて論じた際も「文学を科学することはできる」と述べた。
 虚構を解釈するためには、仮説を立て、テクストから論拠となる部分を探して論証しなければならない。その中では「主張を支える適切な根拠をそろえること」「多面的・多角的な視点から自分の考えを見直したり、根拠や論拠の吟味を重ねたりして、主張を明確にすること」「個々の文の表現の仕方や段落の構造を吟味する」という「論理国語」で設定された営みを行わなければならない。論理なしでは、虚構を解釈することは不可能だ。論理がない解釈はただの感想に過ぎない(論理のない感想もめっちゃ大事だけど)。

 論理と文学は分割できるものではないし、文学を解釈するためには論理が必要だ。
 文学研究に関する評論を使いつつ、文学テクストを解釈し、批評できるだけの力があれば、法令文などの「実用文」の論理構造を掴むことも可能である。

「文学国語」の可能性

 大橋崇行は、PISAで求められる能力を踏まえながら以下のように述べる。

「論理国語」が「近代以降の論理的な文章及び現代の社会生活に必要とされる実用的な文章」しか教材として扱うことができないのに対して、「文学国語」では「近代以降の文学的な文章とすること。また、必要に応じて、翻訳の文章、古典における文学的な文章、近代以降の文語文、演劇や映画の作品及び文学などについての評論文などを用いることができる」とされており、「論理国語」の教材よりもはるかに、PISAの「text」観に近い教材設定がなされている。したがって、「文学国語」の教科書をどれだけ教育として魅力的な、子どもたちの「読解力」に結びつく内容にしていけるかどうかが、国語教育と文学研究とが、これからもっとも注力するべき部分である。
 大橋崇行「「PISA型読解力」に結びつく国語教育・文学研究(『どうする?どうなる?これからの「国語」教育』幻戯出版 2019)

 これは極めて重要な指摘である。「書くこと」と「読むこと」という点から見ても、「論理国語」よりも「文学国語」の方が守備範囲がはるかに広い。「文学国語」における「批評」に営みを年間140時間展開できれば、生徒は数々の新しい「自己」との出会い、書くことの喜び・厳しさ、他者へ伝えることの重要性と、それに伴う技術に触れることができるはずだ。「文学国語」は「論理国語」を包括できる。
 紅野謙介は「これまで「現代文B」と「古典B」を選択してきた学校は、その科目のあとに「論理国語」を必ず選び、もう一つを「文学国語」か「古典探究」にするでしょう」(紅野謙介『国語教育の危機』筑摩書房、2018)という前提に立った上で教育現場からの文学の排除を論じているが、この前提が必ずしも正しいとは限らない。
「論理国語」が必履修科目で、「文学国語」や「古典探究」だけが選択科目として設定されていれば、明らかに「文学の軽視」だろうが、「論理国語」も選択科目として設定されている以上、これを「文学の軽視」として切って捨てるには惜しい。
 今大事なことは「文学国語」において、国語教育に何ができるのか、どれだけ多様な営みが可能なのか、ということを試行錯誤し、「文学国語」への大きな潮流を形成することではないだろうか。

 ただ、「文学国語」には時間配分や理念、さらには「大学入学共通テスト」との接続という点で、非常に大きな問題を孕んでいる。次の記事では、問題点に触れていきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?