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「アクティブラーニング」と、どう付き合っていく?③

 大仏さまです。バックは青空。わずかなグラデーションがたまらなく綺麗。こどもちゃんは「えもーい!!」って言ってました。
 そんな鎌倉の想い出に浸っている場合ではない。この連載はいつ終わりを迎えるのか。とりあえずあと二つの要素をまとめるまでは終われない…。さっそくいきましょう。

②仮説を立て論証する営み

 前回は「自ら論理を組み立てる営み」のお話をしました。他者が組み立てら論理を模倣する営みは「教員の板書を写す」という行為を通じて繰り返すことはできますが、模倣で身につけた論理構築法を自分自身で試す営みは授業の中では非常に少ない。それと同様に「自ら仮説を立て、仮説を論証する営み」は学校教育の中であまり導入されていない。

 高校までの教育では、「論理的に導き出せるような解答」が設定されている問題を解く営みは繰り返し行うが、そもそも自分で問題提起し、仮説を立て、論証するという営みは少ない。
 しかし、大学に入れば「答えのある問題を解く力」以上に「問う力」が問われるようになる。もちろん解く力も重要であり、その力を育むことも高校教育の中では必須事項となるが、「問う力」の萌芽を見出す必要もある。

「テクスト分析」という「科学」

 近年、学校教育の中で「文学」が取り扱われることの意義が揺らいでいる。
 学習指導要領の改訂によって小説が中心に取り扱われる「文学国語」が導入されるものの、「進学校などでは文学国語を選択する生徒は少ないのでは」などの批判を受けている。

 そもそも「文学」という学問も日本が西洋近代を受容するために設定された一種の「装置」だと私は考えていて、「文学」という考え方自体が幻想なのではないか、と思う部分もある。「文学」の現場で取り扱われる小説は、いつだってメインストリームから逸脱したり敗北したものが紡いでいくものだった。「文学」は逃避のメディアなのだ。

 という、文学とはなにか、という話はさておき、小説は「仮説を立て、論証する営み」との親和性が高いのではないか。
 バルトの議論とはまた異なるが、一般的には小説には作者(文字通り作者)がいて、作者の意図によって構築された「テクスト」であると考えられている。一方で、読者にとってのテクストは、「読者によって解釈されていない無秩序な世界」であるとも考えられる。コミュニケーションと一緒で、一つのテクストは解釈コードによって全く別の意味が生成される。これは自然科学の考え方と同様である。
 自然科学も、本来はカオスである世界を、人為的な基準・規格で切り取り、再構成し、機械的に操作する営みだ。「無秩序な世界を観測者のコードで構成し直す」という意味ではテクスト分析も自然科学も同じ営みなのである。

 編まれたテクストを読む中で、仮説を立てて、論証し、一つのストーリーを作る。そのような営みが可能なのが小説なのである。

夏目漱石『こころ』での実践

 『こころ』というテクストはその多くが一人称視点で語られる。学校現場で取り扱われるのは下巻「先生の遺書」の後半部分。Kが自殺を遂げるまでの箇所だ。つまり、「先生」の語りによって進められる部分である。
 一人称視点で語られているストーリーには空白が生じる。Kの心情は先生の語りを通して読者に伝わるので、K視点からのKの心情を読者は知ることができない(自分の心情を自分で把握できるのか、という話はまた別のお話)
 その空白を授業では有効に使う。生徒が仮説を立てることで、その空白を埋めていく作業をする。

 授業では基本的な展開をおさえながら読み進めていき、読み終わったところで生徒に800字の渡す。『こころ』のテクストの中で疑問に思った点を一つ設定し、必ず仮説を設定し、論証をする形をとる。簡単にいえば「〜ではないか」から論を始め、論を構成していき、結論まで導いていくという方法だ。
 まず疑問点を探すのも難しいということもあるので、随所で疑問点を提示していく。「馬鹿だ」と言ったKは、自分のどの部分を「馬鹿だ」と嘲ったのか。奥さんはなぜ先生からお嬢さんとの結婚を申し込まれたときに驚かなかったのか。など、語られていない謎を散りばめていく。もちろん教員が挙げた疑問を取り扱ってもいいし、自分で考えたものでもよい。

生徒の実践例

 一つだけ生徒の実践例を挙げておきたい。
 その生徒が挙げた疑問は「なぜKは遺書にお嬢さんの名前を書かなかった」というものだった。その生徒は「その行為は先生への復讐だったのではないか」という仮説を立てて論証を始めた。「復讐」というキーワードを使って『こころ』を読み解くという着眼点を設定した時点で非常に価値のある論になっている。
 Kは池の端で「精神的向上心のないものは馬鹿だ」と言われた時点で「先生はKを出し抜こうとしている」ということに気が付いていた、と論じ、さらに夜にKは襖を開けて先生を呼んでいることから、Kは前々から自殺を考えていたのではないかと論を展開する。
 最後に遺書を書く中でお嬢さんの名前をわざとKは書き遺さなかった。そうすることで、お嬢さんに関する恋の対決はKと先生にしか知らない事実にした。もしそこでお嬢さんのことを書けば、先生の「罪」が明らかになるものの、その罪は清算されたり、許されることで、先生の罪は晴れてしまうかもしれない。しかし、その事実を明かさないことで、先生もお嬢さんや奥さんに告白することができなくなり、ずっと自分の中に「罪」を抱えたまま生きていくことになる。結果として、先生は自分の「罪」に苦しみながら生きていく。そうすることでKは先生へ「復讐」を図った。
 現に、先生がその罪を青年に告白したのは先生が死ぬ直前だった。

 若干の飛躍はあるものの、800字という限られた紙面の中に『こころ』のエッセンスが凝縮されていた。これも「復讐」という仮説を立てることができたところが大きい。

 このように、仮説を立てる力、そしてその仮説を論証する力を育てるためには小説というメディアは高い効果を発揮する。
 理数系の学問の中で仮説を立てることは難しい。実験も容易ではなく、数学でも全く新しい仮説を立てることは困難だ。中学校、高校の環境の中でもっとも「仮説と論証」の訓練を容易に行うことができるのは実はテクスト分析の中なのでないか。

 感情を読み取ったり、心情を整理するだけではない。小説は科学できる。それが「文学」という営みなのだ。

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