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誰かを救うことということは、誰かを見捨ててるということなのかもしれない

僕のnoteを読んでくれている人が「中村憲剛」と聞くと、どれだけの人がピンとくるのだろうか。サッカーに興味なければあまり馴染みのない名前かもしれないが、少なくとも日本のサッカーファンでこの名前を知らない人はいないだろう。僕が応援する川崎フロンターレでバンディエラとも称される選手だ。初めておもちゃ以外の誕生日プレゼントを親にお願いしたのはたしか小4くらいの時で、そのプレゼントというのは他でもない中村憲剛選手のユニフォームだ。そんな中村選手が、忘れもしない去年の11月2日、前十字靭帯損傷と半月板損傷という大怪我を負った。衝撃だった。この怪我は、サッカー選手としては選手生命を絶たれかねない致命的な怪我だ。たとえ若手であっても、この怪我を負ってしまうと元通りのプレーをできるようになることは保証されない。そんな怪我を39歳で負ってしまった中村選手に対して、多くの人が「そのまま引退するのではないか」と考えた。実際僕もそう思った。しかし、中村選手は「また戻ってくる」と宣言し、実際今年の8月29日、本当にピッチに戻ってきた。しかも自らのゴールで花を添えて。その姿には、フロンターレサポーターだけではなく、日本の全サッカーファンが歓喜した。数日後、そんな中村選手のドラマチックな復活劇のドキュメンタリーがDAZNで配信されることになった。

多くのサポーター、そして選手までが「号泣まちがいない」などと言いながらこれを待ちわびた。楽しみにする声がほとんどな中で、こんなツイートが反響を集めていた。

DAZNの制作の方へ

公開予定のこちらの映像にフルで日本語字幕をつけて欲しいです。私は耳が聞こえません。また、私の他にもこの映像を見たいと思っている聞こえない人、いるかもしれません。
DAZNユーザー誰もが見られて、内容も理解できる映像を作って欲しいです
どうぞよろしくお願いします。

そして数日後、DAZNは配信予定の延期を発表した。具体的な理由を述べることはなかったが、このツイートを見た人からすれば理由は明白だった。そして元々の予定より一週間遅れて配信が開始した。

ありきたりな言葉かもしれないが、久しぶりに勇気をもらった気がする。詳しい内容や感想ついては割愛するが、今のところ3回見て3回号泣したことだけは記しておきたい。

この一連の出来事に対して、DAZNの対応に賞賛の声がたくさんあがった。僕も今回に関しては素晴らしかったと思う。しかし、一方で「これだけいいのか?これだけでよかったのか?」という思いもあった。今回は上記のツイートに反響があったからDAZNは特例として対応したのだと思う。しかし別の見方をすれば、声を挙げる勇気があった人がいてそれが拡散されたから対応されただけで、もしかしたら別の形でDAZNのコンテンツを楽しめない人がいるかもしれない。そしてその人は、自分にはしょうがない諦めているかもしれないし、もしかしたら声をあげる勇気がないのかもしれない。同じようなことを川崎フロンターレのシャレン活動(シャレンとはJリーグが行う社会貢献活動の名称)を知った時にも感じた。詳細はこちらから参照していただきたいが、川崎フロンターレが感覚過敏の子どもたちにもサッカー観戦を楽しんでもらえるような取り組みを行った時のことである。たしかに、確実にこの取り組みは感覚過敏を助けているのかもしれない。しかしもっと視野を広げると、本当はサッカー観戦を楽しみたいけど、別の形の問題があってサッカー観戦を楽しめない人がいて、そのような人がこの活動を見ると「私には?」となってしまうのではないだろうか。たった10数人の子どもたちのためにこれだけの人がこれだけの労力をかけているのに、何もしてもらえない自分に悲しくなったりしてしまわないのだろうか。

春学期のゼミで、インクルーシブデザインに取り組んでいる「特定非営利活動法人Collable」の方がお話をしに来てくださった。今回の件も踏まえ、その時の話の中で思い出したのは「『ために』から『ともに』へ」という言葉だ。誰かの「ために」活動しているとは、言い方を変えれば誰かに目を向けて活動しているということだ。どこかに目を向けているといるということは、それ以外の人からは目を背けているとも言える。言い方を変えれば、誰かを救うということは誰かを見捨ててるということではないのか。DAZNの対応や川崎フロンターレの活動を見ると、今までになかった取り組みに素晴らしいと感じる一方で、複雑な気持ちももっている自分もいた。耳の聞こえない人のために字幕をつけることは目の見えない人のためには何もしてないと言えるかもしれないし、感覚過敏の子どもたちのために特別な部屋を用意することは足の不自由な人のためには何もしないとも言えるかもしれない。キリがないと言えばそうなのだが、僕にはそう思えた。ではそう考えた時に、僕には何をどうすればいいのだろうか。もちろん今すぐ答えを出せる問題ではない。でも今できるのは、誰かの「ために」行動することではないのだろうか。「ために」の行動を1つ1つ積み重ねて、それを日常にしていく。現時点では耳の聞こえない人のために字幕をつけることは目の見えない人のためには何もしてないと言えるかもしれないが、また次に目の見えない人のために行動すればいい。一気に全ての人を解決しようとするのではなく、まずは一人のために。それを積み重ねていくことが「『ために』から『ともに』へ」ということではないのだろうか。


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