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Commonの時間

いつも朝は7時から8時の間くらいに目が覚める。ベッドから起き上がるとすぐに寮の食堂に向かい朝ごはんを食べる。朝ごはんを食べ終わると、歯を磨き着替えてソファーで少しのんびりする。この時間が1日の中でたまらなく好きな時間だ。永遠に続けばなといつも思う。だが気づいたら午前9時。そろそろ始動の時間だ。まずパソコンの電源を入れる。それと同時に自分の電源も入る。「今日も頑張ろう。」こうして自分の一日が始まる。授業や課題に取り組んだりインターンの仕事をしたりしてると気づけばもう夕方。一日の予定が終わり、パソコンの電源を落とす。不思議なことにその瞬間どっと疲れを感じる。それまでは疲れなんて全く感じずにいきいきとしていたのに。今までは移動の時間や授業の前後の友達との雑談の時間だったりがウォーミングアップやクールダウンになっていた。しかし基本的には家で過ごすことが多い今、そのような時間は全くなく突然試合が始まり突然試合が終わる、そんな感覚だ。

そんな日々の中では、自分の中で時間の使い方に対する意識はかなりはっきりしていたと思う。パソコンの電源がオンの時間は、グーグルカレンダー通りに予定をこなし、合間の時間はSNSを見たりネットニュースを見たりなど常に他人を意識した時間を過ごす。パソコンの電源がオフになれば、できるだけ携帯も見ないようにし、運動したり読書をしたりテレビを見たり。実家にいる間はドライブなんかもよく行ってた。いわゆる自分の時間だ。ある本ではこれを「他人モード」の時間と「自分モード」の時間と表現し、現代は多くの人が「他人モード」に支配されてると書いてあった。コロナが流行する前に書かれた本だったが、自分の現状とも重なり納得していた。

そんなことを考えていた5月の中頃、ずっと気になっていたクルミドの朝モヤにオンラインで参加した。日曜の朝9時からというのは移動時間も考えると自分にとって酷だったが、オンラインということでその日は実家にいたが参加することができた。哲学カフェとも呼ばれるこのクルミドの朝モヤはテーマは最初から決まっておらず、参加者が話したいことをそれぞれ出し合いその中から決める。その日のテーマは「人は何にストレスを感じ、どう解消しているのか?」参加者それぞれがコロナ禍での生活も重ね合わせて思うままに語り対話が進んでいった。その中で、自分は先にも出した「自分モード」と「他人モード」という言葉を出した。すると、思いの外参加者の方が反応してくださり、その後の対話も「自分モード」と「他人モード」という言葉を中心に盛り上っていった。しかし、自分がこの2つの言葉を出したにも関わらず、参加者の方がそれらの言葉を使えば使うほど自分の中で違和感を感じるようになった。何故なら、クルミドの朝モヤに参加しているその時間が、自分の中では「自分モード」の時間でも「他人モード」の時間でもなく、自分と他者が同じ時間を「共有している」という感覚が強かったからだ。長岡ゼミではよく、PrivateでもPublicでもないCommonの世界を考えるという言葉が出てくるが、まさに自分がクルミドの朝モヤで過ごしていたその時間はCommonの世界だった。

時間を共有する感覚。そう言ってもわかるようでわからない。そもそも、クルミドの朝モヤのようなものは誰かから強制されていくものでも、仕事や授業だから行くというわけでもない。ただその場が好きという感情に素直に従っているだけで、行きたいから行っているだけ。そういう意味では、「自分モード」の延長にある時間とも言えるかもしれない。先までに述べていた「自分モード」の時間との違いはそこに他者がいるかどうか。当たり前と言えば当たり前だが、時間を共有する感覚のキーは他者の存在だろう。自分モードの時間で果たす他者の役割。僕が思うに、それは何かしてくれたとか損得勘定の話ではなくて、ただそこに「いる」という存在そのものだと思う。そして、そこに「いる」から同じ感情を共有している感覚。その感覚を自分、そして他者が互いにもてた時、それを時間を共有しているという呼べるのではないだろうか。もしかするとその時間は自分だけでも成り立つ時間なのかもしれない。しかし、他者がいることでちょっとだけでも「いい時間だったな」と思えればそれでいいと自分は思うし、それだけで時間を共有しているという感覚になれると思う。

先週、リモートマッチという形でJリーグが再開した。友達と電話を繋ぎながら、各々家のテレビで観戦。久しぶりにやってきたJリーグという自分たちにとっての日常。点が入ったら電話の向こう側で友達が喜んでいるのが聞こえてきた。もちろんサッカーを観ること自体も好きだが、何より友達たちと同時に同じ感情を分かち合えるということが大好きだ。今まではそのような感情を共有していたのはスタジアムというリアルな空間だった。今日からスタジアムでの観戦も再開はするが、制限される部分がかなり多く今まで通りの応援はできない。また自分が等々力競技場に行くには県を跨ぐことになる。スタジアムに行くのがいつになるかわからない。しかし、だからといって残念という気持ちもない。同じ空間にはいれなくても、同じ時間を共有することができれば感情を共有できる。それだけで十分楽しめる。この感覚をもてるだけで、ニューノーマル時代でも心豊かにいられるのではないだろうか。

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