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「私たち」を広げていく

ここ最近ニュースや新聞・ネットの記事を見ているとその8割くらいの最初の言葉は「新型コロナウイルスの感染拡大を受け・・・」である。正直ここまでの事態になるとは2月頃までは誰も想像していなかっただろう。4月だというのに普段東京にいる父親と兄も含めた家族全員が実家に揃っている。こんな生活が2週間ほど続いているが、未だにこれが不思議に感じるくらいこの状況を信じきれない自分もいる。歴史の教科書に載るならペリー来航と同じくらいのインパクトになるのかな、なんて考えたりもする。

自粛生活が続き家族以外の人とは誰とも会わない、特に一人暮らしの人とは本当に誰とも会っていないために精神的にきついという人は大勢いるだろう。自分もその一人である。しかし、自分にとってはそれ以上に疲れていることがある。それは、常に自分は相手より正しい・優れていると言わんばかりの主張・批判・評価が溢れかえっているいわば「マウンティング社会」に、である。もちろん、正当なそれらは世の中をよくするためには必要なことである。しかし、社会のための提言のようにに見えて実は自分の優位性を示すためのような言葉ばかりである。特にコロナの影響が拡大していく中で、政府の対応や誰かの行動に対してそのような言葉が数多くみられるようになったと感じるのは自分だけではないはずだ。

なぜそのようになってしまっているのかを考えると、2つの要因が考えられる。1つは、そもそも資本主義は弱肉強食を是としていることである。これに関しては言うまでもないが、「じゃあ今すぐ変えよう!」とはなるわけがないしそんな単純な話ではない。自分たちが変えなければいけないのは、この枠組みの中で1人1人の意識である。それがもう1つの要因に深く関わっている。もう1つの要因とは、「私」ではない人が「他人」になってしまっていることである。経済が成長するにつれて、1つのモノ・サービスに関わる人が多くなっていく。これに加えてデジタル化、特にコロナの影響で様々な仕事やサービスがオンライン化していることもあり、本来はたくさんの人がなした仕事によってなされているはずのものに、その人たちの仕事を感じ取りにくくなっているのだ。もちろん、経済成長・経済合理性から考えれば規模の拡大やデジタル化は避けられないことであることは理解できる。しかし、それだけでいいのだろうか。

これについて、もう引退したが自分が好きだった芸能人が交通事故を例にこんな話をしていた。

警察官とお医者さんがいない島がある。そこでは事故は起こらない。なんでかって島の人がケガしたって医者がいない。だから皆が気を付けて運転する。その島は小さくて人数が限られている。だから全員顔見知り。全員顔見知りってことは小っちゃな家族。だから皆家族は気づつけたくない。でも人口が多くなると本当は家族だったはずなのにみんなが他人になる。飲酒運転がなくならないのはみんなが家族やと思わんから。


この言葉は先に述べた点をわかりやすく説明してくれている。「私」ではない人を「他人」とするか「家族」とするかで自分の心の持ち方・振る舞いが全く変わってくるのである。また、吉祥寺にあるカフェ、クルミドコーヒーの店主・影山知明さんは著書『ゆっくり、いそげ~カフェからはじめる人を手段化しない経済~』でこのような言い方をしている。

物事の出発点を「私」にしてみる。そして、他でもない経済活動ー「働くこと」や「ものを作り売ること」、「お店を経営すること」といった一連の諸活動ーが「私」を「私たち」にしていく。(中略)「私たち」が広がるということーすなわち、「私」にとって「大事な人」の範囲が広がるということであり、他人事ではない関心を持つ社会の範囲が広がっていくということだ。「私」の範囲が広がると言ってもいい。私のまわり、それもまた自分の一部だという具合に。

このような関係をどのように築くかという点について影山さんは「take(=利用する)関係」と「give(=与える)関係」という言葉を使ってこの本の中で説明しているので割愛するが、これに加えて自分は、「私」が「大事な人」にとっての「大事な人」になれているかという視点を加えたい。というより、一方的に自分が大事だと思っているだけでは本当の意味での大事な人ではない。影山さんの言葉を借りるならそれはただの「takeの関係」であり、自分にとって都合がいいということを自分にとって大事だと勘違いしているだけなのではないかと思う。そうではなく、「私」にとっての「大事な人」にとっても「私」が「大事な人」になって初めてそれを「私たち」と呼べるのではないかと思う。そのような関係を築き、広げていくことがこの世界をよくすることにつながると自分は信じている。

冒頭にも触れたが、今世の中は本当に大変な事態に陥っている。今のところ緊急事態宣言は5月6日までとなっているが、この状況でそんな簡単に収まるわけがない。2022年までこれが続くのではないかというデータもある。そのような中でもし自分が提言できるとしたら、世界中で「私たち」の輪を広げていくことを挙げる。そんな単純な話ではないこともわかっている。だが、批判という名のポジショントークをしている場合ではないのである。共にこの状況を乗り越えるための「私たち」にならなければいけないのだ。

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