映画「名付けようのない踊り」感想

感想を書くことにも気力がいる。
その事をどうでもいいと思える作品に出会う。
その数を一生かけて増やしていけたらいいなと思う。

田中泯さんというダンサー。
この映画を見るまでは知らなかった。
映画館に行った時、この映画のダイジェスト版が映画館のホールで流れていた。友達と釘付けになった。
そしてチラシを持ち帰り上演の日を待った。

チラシの表・裏、そして中のデザインもとてもエネルギーがあるデザインだった。
田中泯さんにエネルギーをあるからこそ、出来たデザインに違いない。エネルギーがエネルギーを生むとはとても気持ちがいい。

気持ちがいい関係性を、日常生活で築けるようになりたいと思う。

この映画を一言でいうなら、踊ることを承認してくれたようだった。
ネタばれを抑えながら話していこうと思うが中々むずかしい。

承認というのは、田中泯さんがいて、それに踊りたいと思う私がいて、一緒に踊りたいと思う他者を想像させてくれたという事である。

私は踊るというのは一人ですることのように考えていたし、今もそう思っている部分が多くあるのだけれど、他者と一緒に踊りたいと思うことが自然なことなんだということを感じられた。

踊りというのは物理的な、体を動かすという意味での踊りと、そうではない部分での踊りのことをここでは指している。
映画をみるとそこは意味がわかると思う。

そして物理的な踊りについて。
なかなか言葉で表現しにくい部分を描いている。
それが狙いだとは思うのだけれど。

物理的な踊りに関しては、おこがましいけれど、私が本来求めるものが目の前に映るものだから「これでいいんだ」と思った。
私が今生きる上で必要な感覚は、「これでいいんだ」と思う感覚だという事を、この時この映画で知った。

これまで生きていく中で「これじゃいけない」それが前提の身の上で日常生活を送ってきた。
もちろんそれは習慣だからすぐにやめる事は出来ない。けれども、それでも久しぶりに「これでいいんだ」と思わせてくれた。

話の中で出てくる「わたしの子ども」という表現がすごく好きだった。基本的には、田中泯さんが自分の幼少期を表現する言葉として用いられていた。
私は今も子どもの頃の私が絶えず存在し、でもその事が気持ちの悪い事なのではないかと思っていた。
でもこの表現で、1個人として受け取る事を許された気がして救われた。
本質的に田中泯さんがどういう意味合いで「わたしの子ども」と言っているのかはわからないけれど、でもこの言葉「わたしの子ども」これだけで全てを語ったと思った。

承認欲求との根本的な戦いは人間にあると思う。無いというのは幸せかもしれない。
私はでも承認欲求のおかげで人と出会い語り合う事が出来る。だから私にとっては大切なものだ。

そういった事を全て含めて、映画の中で承認してもらえたと思っている。

その事で本来したい事、居たい自分を思い直せることが出来た。私にとっては自分の命を大切にする事と同じだから、それを田中泯さんというダンサーが背中を押してくれるような映画だった。

自分の力で自分や他者を承認していく必要があると感じる。自分でしないといけない、それが大切なことだ。

その事は、結果的に創作に活かされると思う。
創作に活かされるという事は、私の中では結果的に社会と人と生きる事だから。


映画の中で印象的だった言葉がいくつかあるけれど、大切にしまっておきたい。
私にとって言葉は人に送るプレゼントだと思っている。田中泯さんが踊りとそして言葉をどう考えているのか。映画の中で触れる事が出来て本当に良かった。

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