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【神話エッセイ】秋の思い出 その1

秋になると近くの神社で秋祭りがある。

その神社というのは由緒があるというほどのものではなく、その昔(といっても100年もたっていない)、すぐ後ろを流れている斐伊川が氾濫したときに川上から神社関係のものが流れ着いたらしい。それを奇禍として、地元の名士が集まり、祀ったというのがこの神社の起こりである。

だから祭神がおそらくはっきりしていない。それでも地元のみんなは有り難がってこの神社を祀っている。そう考えると、各地でこのような神社が次々と増えているということの証左にもなる。もちろん、地元が盛り上がっていなければ、いずれは衰退し、神社も合祀と称して、統合されることになる(これも歴史的に多く見られたことである)。

まぁ、それはいいとして、ぼくの子供の頃から秋祭りにはこの神社でお祭りがあり、神様にささげる神楽が奉納される。そのときに的屋が1~2軒やってくるのを楽しみにしていた。だいたい、そのひとつは食べ物屋でたいやきだったり、大判饅頭だったり、トウモロコシだったり、いかやきだったりした。もう一軒はおそらくこどもたちのためであろう、おもちゃや当たりくじを売っていた。

神社の秋祭りになると、親戚を呼んで夜はみなで騒ぐという習慣もあり、親戚の子供達と一緒に暗くなると出かけて行った。あるとき、親戚の大人たちからこどものお小遣いとしてひとり1000円(100円玉10個)もたせられた。今までにない大判振る舞いだと思ったから、いつもだったらおそらく500円くらいのお小遣いをもっていっていたのだろうと思う。

当然、ぼくたちは興奮気味に神社に出かけて行った。さぁ、何を買おうと迷っているうちに事件は起きた。

ぼくの財布のがま口が開いたままになっていたのである。

なんと、100円玉全部を屋台の前で散らばしてしまっていたらしい。慌てて、みんなに100円玉が落ちていなかったか聞いて回った。地元のお祭りなので、ほとんど知った顔ぶれだ。とはいっても大人は知らない人もいたから、声掛けをしたのは子供達だけだった。

結局のところ、30分くらい聞いて回ったけれど返ってきたのは600円だけだった。残り400円は最後まで返ってこなかった。これじゃぁいつものお小遣い(500円)とほとんど変わらないじゃないかとガックリしたことを覚えている。

しかし、時がたつにつれてこのときの出来事はぼくに教訓を与えてくれたように思う。

世の中には、いい人や悪い人がいるかもしれないけれど、6:4でいいひとが多いのではなかろうか。

1000円分の100円玉のうち、幸いにも600円は返ってきたのだ。4人くすねる人がいたとしても、6人は正直に返してくれたのである。

もちろん、この話はコップの水のたとえ話のようなものなのかもしれない。コップに入った半分の水をもうこんなに無くなったと嘆くのか、まだ半分も残っているじゃないかと希望をいだくのか、心の持ちようによってどうにでもなるという話である。

ぼくは4人も悪い人がいるのかと思うより、6人もいいひとがいたではないかと思った。そして、大げさにいえば、世の中は悪い人よりいい人が少しだけ多いというのがぼくの哲学にもなった。

人はそれを楽天的だと笑うかもしれないが、ここまでそうやって生きてきたのだからしかたがない。ものごとは身銭を払わないと分からないことが多い。実際に身銭を払って学んだわけだが(笑)



出雲で秋の思い出といえば、ぼくの地元の秋祭りとは(当たり前だけど)ならない。

旧暦10月10日の出雲大社の神在祭(かみありさい)がまず真っ先に挙げられる。


この秋には出雲の神在祭についてじっくり考えてみようと思うのでよろしくお願いします m(_ _)m

今回も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

よかったら出雲にお越しの際は神在祭に合わせていらっしゃるのもよいかと思いますよ。

お待ちしています ♪



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ヘッダー画像は泥棒猫さんの画像をお借りしました。ありがとうございました♪


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