見出し画像

「未来の自分ならどうできるのか」という想像を持って 今を戦う


未来の自分ならどうできるのか

先日、高校のサッカー部の同期に会いました。わざわざ大阪から2時間半かけて徳島に泊まりに来てくれて、僕の家で夜通し色々な話をしました。

宇宙、人体、植物と題材を動かしつつ 原理原則というか、アニミズムというか、メタフィジカル的な何かを 僕がほぼ一方的に教えてもらっていました(彼はまともな社会人)。

すぐに使えそうにないことばかりを話していた中で、どういう文脈だったのか正確なところを覚えていませんが(恐らく少し話が脱線して)、とても印象に残っている、目の前の問題解決に対しても 即効性を期待できる仮説があったので、扱ってみようと思います。

高校のサッカー部にいた頃、サッカーが上手くなるために、そのときの自分なりに 精一杯の努力をしていただろうし、そこに対しての後悔とかはない。ただ、今の自分であれば もっと効率的というか、効果的な行動ができると確信している。

同じように、今、オレたちが直面している何かしらの課題、あるいは目標との差分を埋めるためのアプローチ、そういうものにも、いつかの未来で振り返ったときには「今の自分ならこうできたのに」と思うに違いない。

だとすれば やるべきことは明白で、それは「未来の自分ならどうできるのか」という想像を持って 今を戦うということだろう。

だいたい、彼はこのようなことを言っていたと思います(ここまでカッコ良くはなかった)。

これだけでも こいつに会って良かったと、もう少し正確に言えば 晩飯の中華料理屋を奢った分のリターンは回収できたと、個人事業主として判断していい 価値ある話だったわけです。


「今ここを生きる」 との矛盾は生じるか

アドラー心理学が無事に流行したことと、西海岸の文化と馴染んでスピリチュアル色を消したZEN(禅)とかマインドフルネスが「スティーブ・ジョブズ、Google がやってる!」というパッケージで逆輸入されて 多分4,5年(?)が経ちました。

日本でも、深く理解されいているかはさておき「今ここを生きる」のプライオリティが、体感的にですが 高まっている気がします。


『前後を切断せよ、 みだりに過去に執着するなかれ、いたずらに将来に望を属するなかれ、 満身の力をこめて現在に働け』

これは夏目漱石の有名なやつです。

大学のときの恩師には、サッカーの実践的な話まで落とし込んで、直前のミスを引きずったり(過去)、プレーの成功/失敗をむやみに空想したり(未来)せず、ただただボールを蹴る動作に集中しろと、そう言われてきました。

技術の向上に比例して、ボールではなく周りを見られるようになるのが 球技スポーツの通常的な成長プロセスです。しかし W杯を見ていると、あるレイヤーのトップ選手たちに共通して、 特にシュートのような場面では かなり長い時間、蹴る対象のボールを凝視しているように感じます。

これは究極的な前後の切断だと思っていて、恐らく さっきどう蹴ったか(過去)なんて頭の片隅にもないし、どう飛ばせば良さそうか(未来)は直前のゴールマウスをいちべつしたときに考え終わっているはずです。彼らから感じ取れるのは「今ここで どうボールを蹴るか」に対する圧倒的なエネルギーと、その行為への信頼です。

そして、漱石の言う時間的前後だけでなく、 味方がどこにいて相手がどこにいてという情報(ここでは空間的左右と言いたい)のようなものですら シャットアウトしている(ように見える)。だからこそ、あれだけ精神的にも物理的にもプレッシャーを受ける局面で、ボールを見続けることができるのだと思います。

刹那的なシーンをどう切り抜けるかが問われるスポーツのようなものの場合、発揮されるパフォーマンスの精度と同じくらい求められるのが、こうした時間的前後と空間的左右を切断し、密度を高めた今に焦点を合わせる能力です。


話を戻します。僕自身も流されやすい人間なので、漠然としたシリコンバレー界隈への憧れから『禅マインド ビギナーズ・マインド』とか『サーチ・インサイド・ユアセルフ』にハマり、今ここを生きる派でやっています。

加えて、この分野の延長線上にはフローとかゾーンなるものが存在していると思っています。W杯の例でも示した通り 今ここに集中することの重要性は、スポーツをしている人間の端くれとして やはり 、日々身に染みて感じているわけです。

なので「未来の自分ならどうできるのか」という思考法には興味を感じつつも、遠い先に思いを馳せるような「未来」という概念には、自己矛盾をきたす気配を感じて 初めは抵抗がありました。

しかし 少し考えれば それはまったく的外れな心配で、否定するどころか 我々により一層、今ここを生きるべきだと訴えかけてくることに気づきます。


未来をツールとして利用する

「未来の自分ならどうできるのか」という視線 ー物事を見る上での 視点(切り口)ではなく視線(方向性)ー これは未来から今へ向いています。未来で考え得ることを、今に借りてくるために、そういう見方をするわけです。

これは、今をより良く生きるために 未来を使っている、未来のツール化です。「今ここを生きる」 との矛盾は生じない。


他方、よく不幸だと言われるのは、まだ起こってもいない悪い出来事を空想して、不安になったり何もできなくなったりする人たちです。または、将来のためと称して 目の前のことが充実していなくても我慢する、そうした 今の価値を薄めるような生き方です。このときの視線は明らかに 今から未来へです。

ありもしない未来の危機を回避するため、あるいは 一般論で人生の成功=ゴールのようなものに見当をつけ、行動を規定して、時間を投資して、それを努力と名付けて納得する。

そもそも 未来は不確定ですから、よく分からない未来というギャンブルに、めちゃくちゃよく分かる今を切り売りして得た元手で参加して、全部賭けしているようなもんです。

さっきと真逆で、未来のために今を使っている、今のツール化です。


過去についても同じような解釈が可能です。過去側に立った自分の視線を仮想して、例えば同じ失敗を繰り返さないようにするのは、これは良い過去の使い方です。過去のツール化をしようとするスタンス自体が、しっかりと今を生きられていることを証明します。

しかし、視線が今から過去へ向かっていて、どうにもならない過去を どうにかするための今でしかない(今のツール化をしている)のであれば、あまりに残念だと 言わざるを得ないわけです。


・・・


スポーツのプレーにおいては「今ここ」と「それ以外」を切り離す以上のことは 望まない方がいい気がします。むしろ、その力を磨いた方がいい。

一方で、生きていく上での何かしらの意思決定をする場面では、都度 立ち止まることができます。未来とか過去を切断した上で、なおかつ 今の自分のためにツールとして使える、使い倒すまでがセット。それが賢明で、サヴァイヴのための姿勢ではないでしょうか。

手始めに「未来の自分ならどうできるのか」を問うてみるのは、非常に面白いのではないかと思います。



追伸: 時間的前後だけでなく、空間的左右も、もうツールとして使い倒すくらいの気概、それを許容できる組織

飛躍させて考えれば、シュートの瞬間と同じように 我々がとるすべての行動も、時間的前後だけでなく 空間的左右も切断できれば、さらには それをツールとして 今ここへ活用することができれば、自分の幸福はさる事ながら、とんでもなく良い仕事ができると思います。特にスポーツをしているとそう感じます。

この場合の空間的左右とは、他人とか組織になるでしょう。「他人と組織のことを 気にし過ぎないようにして、逆に自分のツールとして利用s…」くらいまで口を割れば、もう 親の仇でも取りに来るように「そんな奴がいると秩序が崩壊する、あくまで組織のために動け」と主張する勢力は未だ健在です。

しかし、どちらかと言えば「組織のためにやっている」ことをタテマエにして、大して考えもせずにそこにいる人間の方こそ、組織を隠れ蓑的にツール化しているし、これは明らかに悪用です。


組織のためにやるモチベーションなんて底が浅いし、そもそも何が組織のために正しいことなのか分かりっこない。未来と過去との関わり方と同様に、他人と組織に関しても、それぞれが利己的に、今ここ自分をより良くしていくために 使い倒せばいい、というか、それくらいにしか使い道がない。

そして 使い倒し合っているからこそ、もっと自分を、誰かにとっての使える存在にしたいという利他的な循環が自然発生し得る。

優れた組織の定義まで話を広げれば、それはまず、今ここ自分の夢中になれるもののために、すべてを取り込み利用してやろうという "したたかな" 人間が 一定数いて、そうした人間にとって そこが魅力的な場所であること。

そして、個々人のパワーが最大化する その眼前の「夢中」に、それぞれが ただ 没頭していれば、その成果物が価値として組織の外側に出力されるときには、狙っていた 提供したいソリューション、すなわち組織の目的のようなものに変換されている、そういうシステムを積んで自走している、これが理想だと思っています。


全然ピンとこないことを言っているのは、重々承知しています。追伸なので許して下さい。はっきりとしたことを一つ 申し上げるとすれば、もうだいぶん 暑くなってきたので、熱中症にはどうぞ お気をつけて、ご自愛下さい。









最後まで読んで頂き、ありがとうございました。