vsPolandあああ

ビジョンと葛藤する力。無様になってでも手に入れたい物があるか


勝利か敗北かの「結果」だけを聞かれれば、それは全員が勝利を選ぶ。

ここで思考が止まってしまえば、あなたには「勝つためなら何をしてもいい」という勝利至上主義者、あるいは「勝てばすべてが報われて幸せになれる」という勝利万能説信者になる道しか残されていない。

ドーピングも、悪質タックルも、スポーツの価値も、セカンドキャリアも、恐らく自分で考えることができないだろう。


よく議論されるのは、ここに「内容」という条件を追加したものだ。

勝利し そして良い内容であることは言うまでもなく最高。

「勝利したが 悪い内容」だったとき、もしくは「敗北したが 良い内容」だったとき、意見は分かれる。

ここが、乗り越えるべき 次のポイントだ。ここで諦めてしまうと、結果派か内容派、二つの宗派 どちらかに入信せざるを得ない。

もちろん 間違ってはいないし、それなりには楽しめるだろう。

しかしスポーツはもっと複雑で、そして面白い。


なぜ、同じチームを応援していても、こうした対立が起きるのか。それは「ほしいもの」つまり「スポーツに何を求めているのか」が、当たり前だが、人それぞれ違っているからだ。

Aさんは、その試合に「サッカー的な面白さ」のようなものがほしいと言う。だとすれば、判断の軸になるのは 良い内容かどうかであり、極論 勝とうが負けようが Aさんにとっては価値のある試合になる。

そして、ほしいものというのは、スポーツに関わるすべての人の数だけ種類がある。プレーする人が、サポートする人が、観る人が、自分自身で定義しなければいけない。少し難しいかもしれない、けれど、僕たちはそれを定義することができる。それを手に入れるために、僕たちはスポーツをすることができる。


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こんな理屈っぽいことをしなくても、ドイツが負けて、ネイマールがヒールリフトして、セネガルの監督が男前であれば、大人も子どもも 十分すぎるほどに盛り上がるだろう。それがスポーツの魅力でもある。

しかし、考えないと答えを出せないときがある。結果とか内容だけで自分の感情を決めていては どこへもたどり着けないような、難問を与えれられるときがある。時に、スポーツは厳しい。


どうして日本代表は、自ら敗北を選んだのだろう。


同じように考えてみよう。この場合、ほしいものが 何よりも「GL(グループリーグ)突破」だったに違いない。それくらいは分かる。

今回が 珍しいケースになったのは、この「GL突破(=ほしいもの)」が「どのパターン(=結果×内容の4通り)でも得られる可能性がある」という状況に陥ったからだと思う。


競技者は普通、結果か内容、あるいはその両方を追求する。その帰結は必ずしも追求した通りではなく、追求してない方が残ったり、どちらも得られなかったりする。それでも、最低でもどちらか一方を追求することが大前提だと、木曜日の、日本時間で日付が変わるか変わらないかのときまで、僕もそう信じていた。

しかし 彼らが選んだのは、結果を追求せず このまま敗北を受け入れること、そして 内容の追求は解釈が難しいが、ボールを奪いに来ない相手に対して ボールを回し続ける、点を取りに行かないというのは、サッカーがサッカーである要件を部分的に満たしていない、ゆえに内容も追求しなかった。

そういう、あるはずのなかった第四の選択肢だった。

議論すべき点は二つある。

一つ目は、GL突破のために「内容の悪い敗北」を選ぶべきだったかどうか。当然 引き分け以上でも目的はクリアされたわけだから、つまり 四つある中で、どう手を打つべきだったのかという 戦略の話だ。

これは セネガルがコロンビアから点を取るか、日本がポーランドから点を取るかという可能性の問題。現場以外のところにいる人間が検討できることではないし、それ以上でもそれ以下でもない。


二つ目が重要だ。それは 日本代表が ほしいものを「GL突破」にすべきだったのかどうか。つまり、何を大事にするかという 価値観の話だ。

どこかアイデンティティのようなものが揺さぶられた あの十数分、数十分は、観る人すべてに「何がほしいのか」を問いかけてくる時間だった。

日本代表の意思決定を誰がしているのかは知らない。恐らく試合前日までに様々なシミュレートがされ、あの状況になればああすることになっていたのであろう。割と迷わずに長谷部を入れて、攻めることをやめた。

価値観の話に普遍的な正しさはない。それぞれが大事にしているもののために戦い、議論するだけだ。彼らは覚悟を持ってそれをしたし、批判されることをいとわなかった。

問題は僕たちの方にある。僕たちは何がほしかったのだろう。自らにとっての価値が何か分からず 口から出るのは、批判というにはあまりにも体をなさない、これは動揺で、迷いだ。スポーツと自分との間に横たわる、よく分からなさの具現だ。

きちんと自分のほしいものを知っている人は、それがGL突破ではないのであれば納得がいかないだろう。しかしどうも必要以上に風当たりが強いのは、右側の50%(あるいはもっと多く)「ナントナクイイカンジニシテクダサイ」と散髪程度のオーダーしか出せない層の、理不尽な加勢が原因だと思う。

繰り返すが、否定するつもりはない。スポーツとどう関わるかは、圧倒的に自由だ。ただ僕は、サッカー選手の端くれとして右側にいるわけにはいかないので、困って、こうして書いている。


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価値観に正解不正解がないのであれば、どう考えればいいだろうか。思うに 正解不正解はなくても「ビジョナリー(ビジョンがある)かどうか」という事実は存在するはずだ。深い浅いで言い換えてもいい。

ただ単にGL突破という事実がほしかったのであれば、あの日の意志決定はビジョナリーではない。

もし仮に「日本サッカーの未来」のように時間的に遠く、そして多くの人に影響するという意味で広く、そういうものを日本代表がほしがっていたのであれば、そのために計算し たぐり寄せた 決断だったとすれば、これはビジョナリーである。

遠く、広くなればなるほど、無数の選択肢に晒され、選択自体の回数も増える。一本の細い糸を渡るように、今ここまで旅をする。

これは未来予測ではない。何を大事に想い、そのためにどうありたいかを規定する 今のための生き方だ。

結果 もしくは内容という、その場限りの点では 何も分かるはずがない。これは何事でもそうだ。無様な姿を見せないと得られないもの、どちらか一方を捨てることを迫ってくるトレードオフ、そういう中で何を基準に意思決定するのか。

もっと線的に、深く、ビジョナリーに考えることが、唯一正しさに近づくための方法だ。

スポーツはそういう経験を与えてくれる。


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「あんな試合を見せられて 子どもはどう思うのか考えろ」という批判を、大人が言っていた。そう、子どもはどう思うだろうか。多分よく分からない気持ちになるだろう。

めちゃくちゃ良い機会じゃないか!

生きていれば、よく分からない気持ちになることばっかりだ。そのとき 立ち止まってしまうのは「誰かの正しさ」と「違う誰かの正しさ」あるいは「自分」との間に矛盾が生じるからだ。誰かなんていないし、正しさなんてないのに。

「勝つこと」「良いサッカーをすること」誰かの模範解答を漠然と信じていたサッカー少年は 初めて岐路に立つ。日本代表がやったから正しいと思うのか、それとも 誰が何と言おうと「自分はこういうサッカー選手でありたい」という 価値観に出会うのか。

ビジョナリーに考えるのは難しい。だけど、お父さんはそのプロセスを手伝うだけでいい。「間違っている」と一般論を振りかざしたり、ましてやツイートをしてる場合じゃない。


思えば 僕の父親は、何も教えることができないフリをして、自分で考えることの大切さを教えてくれた。


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日本代表に、サッカーに、スポーツに、僕たちは何を求めるだろうか。あなた自身が、大事にしているものについて深く、ビジョンを持って考えてみるべきだ。ベルギーとの試合の中でもきっと、その大事にしているものの一端を見ることができる。

刺激を受けて、感動して、自分もパワーを与える側の人間になりたいと心底思うはずだ。それを燃やして、情熱的に、寝不足でも、力強い出勤をしてやろうじゃないか(井筒も朝早い)。


僕たちはもっと、スポーツに期待していい。





最後まで読んで頂き、ありがとうございました。