悪質タックルの問題を、僕たちはどう考えるべきか



本田圭佑がこのように発言して、少し話題になっていたように思います。

だいたい、僕も同じようなことを感じました。



考え方の狭い人は、実際に起こった出来事を いつまで経っても「どこどこの組織はヤバイ」「誰々が悪い」「誰々が可哀想」「責任を取れ」という具体レベルの話を続けます。

僕の母校の学生が被害者であろうと、だからそれに憤慨してプラカードを持ってデモ行進しようと、僕はどこまでいっても この件の当事者にはなれません。



ニュースも、本も、人の話も 何でもそうですが、大事なのは「抽象化して考える」ということです。

このような問題が起きたときに 永遠の部外者である僕たちがにできるのは、構造とか法則くらいにまで頑張って抽象化し、それを自分に置き換えてみることです。

「なぜそのようなことが起こり」「どのようにすれば防げたか」「では、今の自分(たち)は何をすべきか」というように考えることです。



そのためにも事実の究明は必要ですし、然るべき処分は取られるべきですが、それに対して 蚊帳の外から蚊が叫んだところで何も進展もしないし、議論が本質的になるとも思えません。当事者たちと、司法なり、警察なり、第三者委員会なりの仕事です。


僕たちの仕事は、あくまでも自分の人生において、同じ失敗を繰り返さないように生かしていくこと。大袈裟に言えば、そうした社会全体の経験値のようなものを積み重ねていく行為に参加することです。


・・・


このようなことを語るような立場にいないことは重々承知ですが、昨今のニュースを見て気づいたのは「重要な出来事」と「注目される出来事」にかなりのズレがあるということです。


そもそもの因果関係は「重要だ → だから注目しよう」

しかし、現状は「注目されている → だから重大だろう」


自分にとっての重要さとは、抽象化して考えたときに 自分に置き換えられる、もしくは置き換えるべきだと感じる物事のことです。

しかし、そのような思考がないと、自分にとって何が重要で、何が重要でないかを判断する術がありません。

センセーショナルな事件とか、盛り上がる下世話な芸能人の不倫事情とか、攻撃対象がはっきりした問題に食いつくわけです。

そうしてたくさんの人が食いついているものを見て、またそれに食いつくことを決める人がいるわけです。



今回の問題が「重要ではない」と言いたいわけではなく、その判断を自分でしなくてはいけないということです。


・・・


テレビのない生活をして一年以上が経ち やっと分かったのですが、マスメディアも根本的には同じ思考回路でしょう。

前述の通り「重大な出来事に人々を注目させる」ことが何かを発信する側のあるべき姿だと思っているのですが、どう見ても今の報道のしかたは「注目されている出来事を とにかくやりまくって、人々に重要だと思わせる」そういうような役割にしか見えません(思わせようとも思ってないかもしれない)。


Twitter、2ちゃんねる、ソースは何でもいいから「バズってる」ものを集める。こういうのは、「世間が注目しているということは、世間にとって重要なんだろう」という姿勢で、「重要な出来事とは何か」を判断をすることをやめてしまっている。ただただ 強大な拡散力を持った、拡散のための装置です。



パーソナライズされたり、よく読まれている記事がトップページにあがってきたりするようなインターネットサイトもそうですが、そういうメディアも「そのニュースを知ってほしい」という意思を持って それをしてるわけではないのです。


そういう傾向に対して、ニューヨーク・タイムズの編集者はこう言っています。

「我々の場合、数値によって職務や力点を変えない。読者はニューヨーク・タイムズの判断を求めているのであり、大衆の判断を求めているのではないと信じているからだ。我々は『アメリカン・アイドル』ではないのだから」1

クリック数などを管理することができないという メディアの性質(新聞)もあるけれど『ニューヨーク・タイムズが読者におもねる(気に入られようとする)ことはない』という哲学を持っているということです。


(ニューヨーク・タイムズが優れているかは別問題で)こういうスタンスを持った発信者を見つけるしかないと思います。それは今時 個人ブログでも、Twitterでも何でもありです(見つけるのは難しいけど)。


少なくとも スイッチを押せば自動で情報が流れてくる、パッシブ(受け身の)メディアと呼ばれるものとの関わり方は「これまで自分と周りがどう生活してきたか」は一度忘れて、じっくりと検討する必要があります。


・・・


まとまりのない文章をまとめるとすれば、

今回の問題は、本田圭佑が言うように『監督も悪いし、選手も悪い。傷つけられた選手は生死に繋がるような怪我でなくて何より』

ということでしかない。


これを契機に 大学体育会のシステム上の問題、スポーツ界の取るべき態度、腐敗する組織・権力、パワハラ、クライシスマネジメントまで、それぞれが自分の持ち場でそれを語り 議論することは重要なことだった。これからも続けていくべきです。

他方、未だに、この問題をこの問題として騒ぎ、弾劾ごっこをしている人たちには 注目すべきではないし、ましてや それが重要であるはずがない。




渦中の問題を このように取り上げておいて 矛盾していることを言いますが、今回は許してください。

自分も小さなメディアを通じて発信する者の一人として、PV(ページビュー)とか RT は気になるところですが「重要なこと」と「注目されること」を勘違いしてはいけないと、改めて感じます。


アイドルを目指すのではなく、僕の判断を求めている人がいることを信じて。







*1, イーライ・パリサー(2016年)『フィルターバブルーーインターネットが隠していること』(井口耕二訳), ハヤカワ文庫NF, p100.

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最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

僕も好きです。
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井筒 陸也

敗北のスポーツ学

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