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大人になるとゲームを辞める理由

筆者がビデオゲームを「本気で楽しみ、批評するため」のコミュニティとして、メンバーシップ「ゲームゼミ」を始めて早くも2ヶ月が過ぎようとしている。メンバーシップは想定を大きく上回る勢いで会員に恵まれ、幸いなことにメンバーシップ「ゲームゼミ」は一定の軌道に乗った。

ところで「ゲームゼミ」には掲示板という、ゼミ生同士で議論するための場所がある。これはまるきり2000年代のテキストサイトに設置されていたBBSと同じ類のもので、通常のSNSやDiscordと比べるとスピード感は遅いものの、しかしその分、熟慮を重ねた様々な意見や提案があり、筆者自身も予想もしていなかったほど有意義な場所になりつつある。

中でも直近で最も盛り上がった議論が、「社会人(大人)になったために、ビデオゲームから遠ざかってしまった」「社会人なのでビデオゲームを遊ぶのに疲れを感じ、億劫になった」という意見だった。

この意見には多数の賛同が集まり、どうすれば大人として「ゲーマー」を続けられるのか喧々諤々の議論がされていた。かくいう筆者もまた社会人であり、実のところ、同じ課題を共有する人間だ。そこで掲示板で上がった議論や筆者なりの意見を回想しつつ、いかにして大人はゲームから遠のき、そして再び近づくにはどうすればよいか考えたい。


まず、この手の話題で頻繁にSNSや掲示板などで挙げられる理由に、以下のようなものがある。

「仕事や家庭で忙しくなったから」
「気持ちの余裕をなくしたから」
「ゲームに飽きたから」
「最近のゲームはつまらないから」

先に断っておくと、本稿ではこうした理由に基づく議論はしない。というのも、これらは特別ゲーム固有の問題ではないからだ。


1つ目、「仕事や家庭で忙しくなったから」という理由。

これに関しては、無論のことゲームだけの問題ではなく、釣りや車やオタク趣味全般が同じ問題になる。また、単に趣味に向けていた情熱や達成感を、仕事や家庭から得られるようになったと考えられるので、そもそも不幸なことではないと思う。


2つ目、「気持ちの余裕をなくしたから」という理由。

これも、やはりゲームを含めたどの趣味でも共通の原因になりうるだろう。そもそも、これに関しては趣味よりも「気持ちの余裕をなくす」何らかのストレスが考えられ、それらに直ちに対処するか、それが不可能なら、少なくともストレスを緩和するための手段(精神科の受診や、運動など)を考慮するべきである。


3つ目、「飽きた」という理由。

これは同じゲーマーとしては残念に思うのだが、すでにこの記事で述べた通り、そもそも人間は常に飽きうる生物なので、全く問題ではない。それに、ゲーム以外の趣味であっても、当たり前だが飽きることはある。


4つ目、「最近のゲームはつまらないから」という理由。

この問題はちょっと面白いので記事の最後に解説しているが、結論としてはやはり「ゲーム」そのものの問題にはならない。


言い換えれば、「ゲーム」という趣味にもう少し現実的かつ具体的に即した形で、「ゲームから遠ざかる理由」は存在するのではないか。それは以下の3つではないかと筆者は考える。

①:デジタルプラットフォームの誘惑
②:ソーシャルメディアの情報過多と経済的余裕
③:ゲームライフの多様化と対策

ずばり、今社会人が「ゲームから」離れているのは、まさにこうした「現代ゲーム文化」固有の事情が多かれ少なかれ理由になっている。ここからは、これらの理由をもう少し具体的に検討していこう。



①:デジタルプラットフォームの誘惑

最初に論じたいのが、2010年代にゲーム業界を大きく変革した「デジタルプラットフォーム」と、その誘惑である。

2000年代、Valveが作ったデジタルプラットフォーム「Steam」はゲーム業界に革命を起こした。それ以前のゲームの流通は問屋、小売を通していたところ、Steam以降はユーザーが直接、ゲーム企業からゲームを買えるようになった。

その結果、インディーゲームという文化を隆盛させ、2010年代からは任天堂など他のプラットフォーマーもデジタル化に追従するなど、現代ゲーム文化はSteamなくして語れないほど影響が大きい。


しかし、このSteamは同時に、恐るべき病を我々ゲーマーに与えた。その病の名は「積みゲー」。ゲームを買っているのに遊ばず、積んだまま放置してしまうという、恐るべき病である。

言うまでもなく、積みゲーという病はSteam以前にも存在していたし、そもそもゲームに限らず「積読」「積みプラ」など似たような症例は多くの趣味で散見される。しかし、Steam以降にデジタルプラットフォームが確立されてから、「積みゲー」の病は明らかに深刻さを増していった。

まず、デジタル上での「積みゲー」の問題は、物理的な媒体を伴わないことである。それ以前の「積みゲー」は文字通り、カセットやDVDの媒体を、乱雑に積み上げることを意味していた。そして、このように積まれたゲームは当然邪魔になっているし、賃貸なら毎月賃料を払って借りているスペースを「占有」されることで、所有者はプレイせざるを得ないプレッシャーに晒された。しかし、デジタル上ではこの問題がない。100本でも1000本でも、何本積んだとてプレイヤーに不利益を与えない。だからこそ、いつまでも先延ばしに「積んだまま」にしてしまえる。

加えて、デジタルプラットフォームは消費者にゲームを買わせようと、実に巧みなアプローチを仕掛ける。ストアページには話題の新作ゲームが並び、夏や冬には定期的に半額やそれ以上のセールが開催される。さらに実店舗に行く必要もなければ、通販で数日待ちぼうけをくうことなく、購入した瞬間に遊ぶことができる。畢竟、「積みゲー」はますます増える。

総じて、「積みゲー」の病はそれ以前からずっとあったものの、デジタルプラットフォームは様々な利便性を与えることで、(特に誘惑に弱いゲーマーには)飛躍的にその病を進行させてしまった。

ミーム化されるSteamセール(真ん中は社長のGabe)


しかし、積みゲーの本当の問題とは、ゲームが積まれることそのもの……ではない。

それはゲームが積まれることによって、そもそも何のゲームを遊ぶべきかわからなくなってしまうところに「積みゲー」の真の問題がある。

この前に、まず説明したいのがアルビン・トフラーが提示した「過剰選択(情報オーバーロード)」と呼ばれる問題だ。

この問題を要約すると、選択肢が多すぎるとかえってデメリットが多いというもので、具体的には意思決定者を混乱させ、選択することそのものが精神的に消耗し、選択それ自体を避けるようになるというもの。

同様の研究は、バリー・シュワルツの「選択のパラドクス」や、ジーナ・アイエンガーの「選択とその不満」などでも行われており、総じて学術的に「多すぎる選択肢は様々な問題を生み出す」ということが論じられている。

当然、これは積みゲーでも変わらない。仮に今からゲームをするぞと意気込んだとして、2本のゲームのどちらかを選ぶだけなら、気分に応じて選べるだろうが、それが10本、100本と増えてしまうと、そもそも「どのゲームから遊ぶか」という選択に悩まされ、ゲームを始めるまでもなく疲れてしまう。更に2000年代以降のデジタルプラットフォームの発達は、まさにこの「積みゲー」の問題を悪化させてしまったのである。

では積みゲーによる「選択回避の法則」を回避するにはどうすればよいか。


まず、積みゲーがなくなるまで、自分が好きそうなゲーム、興味のありそうなゲーム以外を買うべきでない。そしてデジタルプラットフォームは便利なものの、それ自体が「広告」としてきわめて有用であり、あらゆる手段で消費者に購入を促す仕組みが整っていることをよく弁えたうえで、活用していく認識が必要だろう。

そしてもし、購入したはいいが積んでしまって、当分遊ぶ予定にないゲームはアンインストールしてしまうといい。ライブラリから消すには及ばないが、今すぐに遊ぶゲームだけをストレージに残しておけば、自然と優先順位がついて「選択」の余地が減る。いずれにせよ、今すぐ遊ぶゲームを絞り、選択の幅を極力減らしておくことで、ゲームを遊ぶことそのものの負担を減らすことができるはずだ。

肝要なのは、選択肢をそもそも減らすことだ。もっと言えば、いくらモノが増えても現実には圧迫されないというデジタルの性質を過信しないことである。


②:ライフステージの移行とソーシャルメディアの情報過多

社会人になって得るものとはなにか?最もわかりやすいものが「お金」である。無論、所得は各人の職業や環境、先天的な条件等によって千差万別であるからして断言はできないが、基本的に、社会人は子どもよりも「お金」を持っている……のだが、実はまずここに罠がある。

まず、子どもは可処分所得が大きく制限されている。そのため、1年でゲームを買える機会はそう多くない。せいぜい誕生日とクリスマス、お正月を除けば数本が限度だろう。だからこそ、多くの子どもは自分が「どうしても欲しい」と思うゲームを凄腕のハンターのように狙い澄まし、数少ないチャンスでゲットする。

これが社会人となると話は変わる。大人は少なからず子どもより経済的に自由であり、その気になれば、1本8000円のゲームを月に2〜3本買える人もいる。しかし、そうなれば子どもの頃のように「どうしても欲しい」と思うゲームを探求し、厳選することもなく、買いたいと思ったゲームを迷わず買える状況にいる。

そこに追い打ちをかけるのが、2010年代以降のソーシャルメディア文化だ。X(Twitter)、Instagram、YouTubeを筆頭に、今やSNSを利用しない人は少数派だろう。こうしたSNSでは、新作ゲームを面白そうに見せかける動画や、新作ゲームを巡って実際に騒いでいる人を目にする。すると前述の経済的な余裕や、「話題についていかなければ」という同調圧力から、特に興味もないゲームを買っている人はいないだろうか。

メディアも盛大に煽る(画像はCNN)


しかし冷静に考えて、万人が必ず面白いと感じるゲームなど存在しない。

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