自分が100本書いて知った「ゲームレビューを書く理由」

私はゲーマー日日新聞というブログでゲームレビューを書いている。それものべ100本を越えており、ようやくゲームレビューの何たるかの輪郭ぐらいは見えてきた感がある。

一方、ゲームレビューの文化そのものは衰退している。

『ゲーム批評』が発行され、成澤大輔氏らが批評をしていた時代はいつのことやら。現代では、大手商業ゲームメディアでレビュー記事を拝読することも稀となり、個人ゲームメディアも数を減らし、あとはAmazonやAppStoreのレビューがせいぜい、という有様である。

では何故衰退したのか。色々事情があるのだが、実はゲームを遊ぶことそのものが、ある種「レビュー/批評」をすることなのではないか、という考えが浮かぶ。


ビデオゲームはインタラクティブなメディアだ。自分が入力し、ゲームが出力する。その繰り返しとして体験が作られる。

つまり、ゲームをプレイすることは、そこに存在する作品に対して、自分なりの意志をぶつけるということである。

どのマップに行くのか、どの武器を使うのか、作品から提示される情報を元に、色々な取捨選択の中で自分の意志を反映させる。

面白いのは、こうした入力に対して、ゲーム側もまたレスポンスを返すメディアという点だ。

敵を倒せば経験値が手に入り、ノーダメージでクリアすればアイテムが手に入る。より良い行動を積み重ねればスコアが増え、逆に失敗すればゲームオーバーと通告して進行状況をリセットさせる。

想定されうるプレイヤーの行動に対して、ゲーム側もまた答えを出す。自分たちがゲームを「批評」すれば、ゲームもまた自分たちを「批評」する。

変な話だが、ゲームを遊ぶということ自体が実は極めて「批評的」なのである。相手方の動向を逐一監査し、判断し、行動に移す。その行動に対してまた結果を出す。

要するに、遊んでいるだけでレビューを書かずとも「批評的欲求」が満たされるのではなかろうか、というのが私の考えだ。


一方で、日本では専門の批評用サイトまで存在し、メディアでも批評が無数に見つかる映画や小説はどうだろうか。

実はこれらにも十分、「インタラクティブ性」「双方向性」はある。作品から提示されるものは、テキストであれ映像であれ「作品」であって真実ではない。

そこから何を読み取り、何を思い、何を考えるかは、全て鑑賞者側の責任である。

これは決して作り手が手を抜いているわけでなく、特に小説の場合わかりやすいが、これは何か情報や分析のための文字でなく、物語や世界のための文字なのだ。同じ文字でも、本質も目的もまるで異なる。

安部公房は作品にテーマがあるか聞かれ「テーマを考えて作らない。結局文学作品は一つの生きている世界を作る。そこに説教は不要」とスッパリ答えている。

だが、本や映画では、ゲームのように鑑賞者が作品を通して得た経験、培った知識、燃やした感情は入力することなく、従ってその入力に対する出力もなく、溶け出した鋳鉄のようなそれを腹の底へ抱えたまま、孤独と向き合わねばならぬ。

だからこそレビューを書く。滂沱の如く溢れる情報に対し、自分も何か吐き出さずにいられない。書いてスッキリしようと思う。レビューが盛んになる理由はこれである。

同時に、この「鋳鉄」を腹の底に入れたまま、飲み込んでしまうことも出来る。というか、一部の権力者以外、何か発行することさえ許されなかった数十年前まではそれが当然だった。それは、SNSという発信になれきった我々からすれば、地獄にも等しい嚥下であろう。

このように、真に孤独の中、常に頭の中でフィードバックすれば、それは至高の咀嚼である。ただ栄養のみ摂取できる。たった一冊の本を読んだだけで、1週間旅行したかのような体験を得られる。


(以下、自分にとってゲームレビューとは何かという話)

この続きをみるには

この続き:555文字

自分が100本書いて知った「ゲームレビューを書く理由」

ゲーマー日日新聞 | note

300円

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

note.user.nickname || note.user.urlname

独立した発信と主食である蒙古タンメン中本のために支援お願いします。

今日は『DOOM』やらない?週に一度の『DOOM』は健康に良いよ。
18

#ゲーム 記事まとめ

noteに公開されているゲーム系の記事をこのマガジンにストックしていきます。PlayStation 4、Nintendo Switchなどのビデオゲーム、ソーシャルゲーム、ボードゲームなど。
1つのマガジンに含まれています
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。