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ゲームは「誰かをぶっ殺せる」から面白い。ゲームの暴力性を文化的に解釈する

ビデオゲームが社会的に批判される上で、大抵つつかれる点が「暴力性」だ。

人を殺す、物を盗む、そういうゲームにおける暴力こそが犯罪を助長し、子供の成長に悪影響を及ぼすのだと、日本でも世界でも批判されてきた。

特に今年の3月には、トランプ大統領が暴力的なゲームが犯罪を起こすと発言し、ホワイトハウスが暴力シーンをまとめた動画を投稿するなどして大きな話題となった。

また昨今ではesportsを取り巻く動きでも、ゲームの暴力が注目されている。オリンピックでesportsを採用する上では暴力的な表現が問題となっているからだ。


だが正直言って、今のビデオゲームにおける「暴力」の議論は、あまりに一面的すぎると私考えている。

グーグルで「ゲーム 暴力」と検索して出てくるのは、まず規制云々の政治的な話題、次に規制への反論としての眉唾な心理学だの調査だのだ。そこに作品個別の、ゲームとしての実在が全くない。

実のところ、ゲームという文化をに根ざす本質的な暴力についての議論は、まだ殆ど進んではいない。一方で、我々ゲーマーはゲームの暴力性について本当に向き合ってもいない。

「ゲームと暴力性」。そこにどのような関係があり、どう向き合うべきなのか、それは良い事か悪い事か。考えていきたい。


一面的な表現規制に振り回されてきた「ゲームの暴力性」議論

正直、ビデオゲームと暴力の関係は極めて密なものである。それを否定することは出来ない。

ゲームの歴史の初期、それも1978年の『インベーダー』から、『マリオ』、『Wizardry』、『DOOM』、『ゼルダ』、『パックマン』、『ドラクエ』、『Civilization』…。

極めて多数のタイトルの中のメカニクスとして、「敵を倒す」という過程があった。そして最終的にはプレイヤーは殺戮を行っていた。

無論、全てのゲームではない。レースであれ、シミュレーションであれ、経営ストラテジーであれ、暴力と離れた作品は存在している。

だが今評価され、売れている作品の大部分は、暴力にあった。つまるところ、ゲームは暴力を振るうという点において、市場的な需要があった事は、認めざるを得ない。民間の調査によると、今年のE3に出展されたゲームの約80%は戦闘を前提としたゲームだったという。((Gender Breakdown of Games Featured at E3 2018 — Feminist Frequency))

要するに、人を、動物を、宇宙人を、或いはインターネット回線を介して他者が操作するアバターを、殺すことに楽しさを感じて、ゲームを遊ぶ人が多数派なのである。

何を隠そう、私がそうなのである。死線をくぐるハラハラ感も捨てがたいが、やっぱり「敵を倒した」と実感した時に得る快楽が、シビアな対人ゲームであれカジュアルなシングルゲームであれモチベーションになっている。

Of course. I love it.


そもそもゲームが暴力的な事自体が問題なのではない。

重要なのは、ゲームが暴力的な事でなく、表現だけで「これは暴力的だ」「あれは暴力的でない」と、時にゲーマーさえ印象で決めている点だと私は思う。

例えば、例の規制派が作った動画を見てみよう。『CoD』、『Wolfenstein』、『DbD』、確かに何も知らない人が見たら、なんてゲームは恐ろしいメディアかと寒気立つシーンばかりだ。

だがこれらに対して「暴力的だ」と忌避感を抱くのは、結局の所そこに血があり、肉があり、銃があるという、短絡的な印象論ではないだろうか。

暴力(Violence)とは、定義だけなら「合法性や正当性を欠いた物理的な強制力」だ。

そして、『CoD』は現実の戦争をモチーフとしたゲームである。ホワイトハウスが『COD』に「正当性を欠いた強制力」を見出すのであれば、皮肉にも過去ホワイトハウスがベトナムや中東諸国に行ってきた暴力そのものを批判すべきではないだろうか。

また、最も規制の対象として摘発されやすい『GTA』は、プレイヤーの暴力に抑制をはたらきかける数少ないゲームでもある。ストーリーでは主人公が自身の暴力性に悩み、死という概念は自分の仲間や家族にも降りかかる。

『Fallout3』において削除された伝説の「核兵器爆発クエスト」。この作品は暴力を以て、暴力のアイロニーを常に描き続ける。


或いは、任天堂のゲームは暴力的ではないのか。私はそう思わない。『マリオ』でクリボーを踏み潰せばうどん生地のようにぺたんこになり、『ゼルダ』でフィールドに生息する魔獣を聖剣で絶命させる事が、全く暴力的でないと言えるだろうか。

いずれも、ゲーム史に残すべき傑作だ。だがどの作品も暴力的でもある。結局の所、暴力の根幹は目的遂行の妨げとなる存在を物理的な強制力で排除することを指すのであり、それ故にビデオゲームにおけるシステムから暴力を排除できなかった、或いは必要でないと考えられてきた。

例えImpの臓物を撒き散らさずとも、クリボーが板状の何かに変形することでプレイヤーは「倒した」と実感を得られるし、血の代わりにエフェクトが飛び散り、死体の姿すら見えずとも夥しい数の人間を核兵器で滅ぼすことで、悦に入ることも出来る。それがゲームである。

にも関わらず、同じ暴力的ゲームの中で特定のタイトルだけ問題視されるのは「暴力的か否か」という本質的な議論でなく、「グロテスクか否か」という、表現的な議論に過ぎない。

無論、あまりにも強烈なゴア表現は目に余るし、未成年の視聴が規制されるのはゲームに限った話でもなく、表現だけなら規制されるべきだ。現に任天堂の宮本茂は、安易なゴア表現で注目を浴びようとするプロモーションを懸念している。((https://www.escapistmagazine.com/news/view/86939-Shigeru-Miyamoto-Concerned-About-Videogame-Violence))

だが、それら表現の問題とゲームの根幹的な暴力性を、同じ論点にして良いのだろうか。仮に、「人間ではない生き物」であれば殺しても良いのか、殺しに政治的イデオロギーがあれば正当化されるのか、という話になりかねないのではないか。

これこそ、ゲームを文化として捉える上で暴力性を議論する際の、最大の障害だ。

「グロさ=暴力性」では決して無い。グロさは表面的なものだが、暴力性は文化の根幹に根付くものだ。だからこそ残虐な表現を通して、暴力性への批判を行う作品も存在するわけで、それらも考慮するべきではないだろうか。

では、もし多数のゲームが暴力的であったとして、すべてを一様に批判するべきなのか。私はそう思わない。

ゲームに暴力がないといえば嘘になるが、だからといってゲームが低俗な文化だと言いたいわけでない。むしろゲームは暴力だからこそ美しいとすら思う。そもそも、暴力は芸術なのだ。


(以下、有料部分は

・文化・芸術に寵愛された暴力性

・暴力性から発展したゲーム、そして次の展望

・追記:ゲームを理解する上で、暴力性は避けて通れない

となります。価格は500円ですが、いつもより質・量共に2倍なので、ご了承ください。)


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