見出し画像

あえて言うけど「読書」はした方がいいぞ。マジで。 ──ゲームゼミ月報

反感を買うことを承知でいうと、読者した方がいい。マジで。

特に今これを読まれている方は、ソーシャルメディアにかかりきりで日夜ゲームをプレイする若い方が多いだろう。私もまさにそういう類の人間だが、そんな人こそ読書をするべき。マジで。

ただこう聞けば、いかな読者諸賢におかれても「おいおい、めちゃくちゃつまんね~~~こと言ってんじゃねえか。読者をすべき?そんなもん、小学生のころから聞き飽き取るわ!どうせ活字がどうの、国語力がどうのと科学的根拠に欠けた道徳を説くんやろ?」と思われたかもしれない。

いや、違うのだ。読書という文化は世間の方々が考えるほど高尚なことではない。ましてネットが発達しAIが手取り足取り教えてくれる時代において、読書は非効率的な手段なのは間違いない。まして、読書をするから豊かな人生が送れるなどと、宗教めいた説話を唱えるつもりもちゃんちゃらない。

つまり「読書肯定派」も「読書否定派」も、読書が高尚で有意義なことだとする言説を共有する時点で、既に間違っている。現代社会で読書は決して効率的な手段ではない。しかしだからこそ重要なのだ、という雑談を少々やりたい。


読書は高尚でもないが下賤でもない

そもそもの勘違いとして、読書なる営みは本来、おおむね娯楽である。本、書籍と一言に言っても、一部の研究書などを除けば、小説、詩、エッセイ、新書や自己啓発書に至るすべての本は娯楽である。娯楽とは、なくても死ぬことはないが、あれば幸せになることを指す。よって本来、読書はやりたい人がやればいいのであって、他人が強要や期待をするものではない。

それでも読書(あるいは活字)が神格化されるのは、活字が「メディア」として一定期間の間、独占的に社会を牛耳っていたからに他ならない。戦後にラジオやテレビが登場して相対的に独占は奪われていったものの、それでも現代のインターネット社会ほど活字が軽んじられる時代はそうなかった。だから伝統や歴史を愚直に信じられる人は、すぐ活字を神格化する。

従って、読書はたまたま生まれた時代が早かったことで特権的な地位を得た、数ある娯楽の一つにすぎない。ただし、逆に言えば「数ある娯楽」の選択肢として、依然読書は残っている。読書は他の何を差し置いてもやるほどの価値はないが、逆にすべてに差し置かれるほど無価値なものでもない。現代人の多くは読書がそもそも選択肢にすら入っていないが、客観的に見ればそれもまた偏っている。


人の話を聞く、という娯楽

以上を踏まえ、神格化も矮小化もしない曇りなき眼で見た時、読書という行為にはどんな価値があるのか。

そもそも本とは、著者の思想、経験、価値、理論、その他もろもろが、「活字」というメディアによって凝縮された、娯楽である。もちろん絵画も映画も漫画もゲームも、作者の個性や考えが大いに含まれているのは否定しない。しかし本におけるそれは比較にならない。それほど「活字」は伝えることに最適化されたメディアなのだ。

だから本に書かれたことは、著者の中で「正しい」と感じた本音があけすけに書かれている(様々なメタファーやストーリーを織り交ぜているが)。ただし、それは客観的にみて「正しい」とか、ソーシャルメディアの誰もが同意する「正しさ」ではない。むしろその逆で、冷静に考えるとおかしくないか?という内容もよく含まれる。

例えば、平成において最も売れた新書にして、戦後において5番目に売れた本に、「バカの壁」という本がある。東大名誉教授にして解剖学者の養老孟司が、現代人が陥る思考の不自由さを軸に社会問題に切り込むという本だ。単に売れただけでなく、恐らく日本で随一の識者が、非常に高度な課題に取り組むことから、いまも評価される名著の一つだが、筆者が読んだときにはこの一節に驚かされた。

 オバサンは元気
 事はホームレスだけでは納まりません。家庭の主婦についても、家事労働がかつてよりもはるかに楽になってしまった。飯炊きはボタン一回押すだけ、研がずに炊ける米だって出てきた。洗濯だって似たようなものです。それでもどういうわけか「家事は無限にある」「男にはわからないけど家事は大変なのよ」と奥さん方はいいます。確かにそうなのかもしれませんし、それをいちいち議論すると家庭内で問題が起きるでしょうが、とりあえず暇な時間が増えたのは間違いない。

養老孟司「バカの壁」

この一節は有り体に言って不愉快なことこの上なく、仮にも東大の教授でもこんなミソジニーに陥るのかと驚いた記憶がある。ただ冷静になって考えたいのは、社会的に正しいかはともかく、少なくとも養老孟司という識者個人の中で、これは「正しい」ことなのであって、そういう本音が忌憚なく述べられていることが「読書をする」ことでしか得られない経験だということだ(「バカの壁」は他にも面白い記述は多くあるのでおすすめ)。

他にも、今でこそYouTubeで有名な桜井政博だが、筆者は俄然、雑誌や書籍の桜井政博のほうが、忌憚なくゲームデザインについての考えを述べていて好きだ。

あえて繰り返しますが……。インディーゲームはボリュームを多く作り込めないのはしょうがない。だからローグ系や探索型に走るのはわかる。だけど、ステージ等のボリュームが削られるぶん、多彩な戦法を取れる土壌はしっかり用意しなければならない!

桜井政博のゲームについて思うこと Vol.575 ローグライクを考える

恐らく桜井はYouTubeやXでは絶対にこういう表現はしないだろう。筆者は同意できる考えだが、実際にインディーゲームを作る人々から反発があるかもしれないし、ただ単に桜井のアンチというだけで揚げ足を取り、翌日にはゲハブログの一面を飾ることは避けられない。

当然だが、万人が納得する「真実」や「正義」などない。養老の考える「オバサン」のあり方、桜井の考える「インディーゲーム」のあり方、それらは一部の人にとっては「真実」であり、そうでない人にとって「不正義」にもなる。そこで大切なのは一つでも多くの「真実」や「正義」に触れることであり、それこそ社会(ソーシャルメディア)による検閲や抑圧を避けやすい
「本」の圧倒的な強みなのである。


読書をしない現代人が陥る「人の話を聞けない」という病

繰り返すように読書は高尚な娯楽ではない。むしろ本には本音で直截に書かれている以上、間違ったこと、偏ったこと、危険なことも大いに書かれている。「GTA」に唆されて銃撃事件を起こした若者の数万、いや数億倍、「我が闘争」や「毛主席語録」に殺人に駆り立てられた者、あるいは「悪霊」を読んで自殺を試みた者の方が多いだろう。「バカの壁」を読んで家事に対する偏見を強めたり、桜井の連載を読んでインディークリエイターをSNSで攻撃する人がいるかもしれない。

そう、読書にはリスクがある。危険でさえある。本音であるが故に、活字であるが故に、自分には同意できないような話や差別的な話、間違った知識や矛盾した理論は多数ある。

しかし、だからこそ読書はいい。

ここから先は

1,577字
この記事のみ ¥ 500

「スキ」を押すと私の推しゲームがランダムで出ます。シェアやマガジン購読も日々ありがとうございます。おかげでゲームを遊んで蒙古タンメンが食べられます。