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ゴジラは、この「特異点」を必要とした ゴジラSP

人間の核実験で姿を変えられ、その文明を憎むかのように人の営みを焼き尽くす大怪獣――地球の平和を脅かす悪い怪獣を、蒼い熱戦でやっつける正義のヒーロー大怪獣――地球という星の王、神にも等しい存在――

日本を代表する映画「ゴジラ」。その主役怪獣であるゴジラは、どうも人によって全く違うイメージを持たれる怪獣であるらしい。
だが、それは当然といえば当然なのである。ゴジラ映画の長い歴史で公開された全35作のゴジラ映画(ゴジラSP公式サイト「ゴジラ映画ヒストリー」に掲載されたもの)において、その「ゴジラ像」は様々な変化、進化を遂げていた。いわば「特異点」は、シリーズの中で幾度となくあったのだ。
だが、それでもこの「特異点」は、これまでに全く類のないものだった。それが、2021年4月から放送されたTVアニメ「ゴジラS.P」だ。

ゴジラSPの放送が発表された当時、僕は本作に期待していたか?と言われれば、答えはNOだ。それは、このPVにある。

放送が終わった今見ると、これもまたなかなか感慨深いものがあるPVだが、当時の僕の感覚としては、どうもあまり期待できなかった。誤解のないように言っておきたいが、僕はこのPVの構成のせいで作品に期待できなかった、というわけではない。むしろこれは第一弾PVとしては十分すぎるクオリティで、とにかく「ワクワク感」を掻き立てる素晴らしいPVであるといえる。
では何が不満だったのか、いや、不満というのは語弊があるが。それは「ゴジラ」らしくないと感じたことだ。

それは、別にゴジラが登場しないからというだけではない。作画にせよ、雰囲気にせよ、PVを構築している様々な要素から「ゴジラ」らしさを感じることができなかったのだ。

さて、こんなことを言えば、当然こんな問いが出てくる。「ゴジラらしさ」とはなんだろうか?
先に書いた通り、実はゴジラ映画は作品によってそのゴジラ観が全く異なる。これを詳細に書くと本当に長くなるので語ることはしないが、そもそも「ゴジラは敵か味方か」という点ですら、作品によって分かれるところなのだ。初代ゴジラとゴジラ対ガイガンなど、もはや別ジャンルの作品だ。
そして、それが故に、「ゴジラとは」に対する答えは、人によって全く異なってくる。
そして、僕が人生で初めて映画館で見たゴジラ映画は「シン・ゴジラ」だ。あの映画の衝撃は色々な意味ですごかったが、ともかく僕のゴジラ観は、完全にこの作品に引っ張られているといえる。つまりは、人間ではどうしても抗えない絶望。絶対的な神のような存在。それが、僕の中でのゴジラだ。自衛隊の総力戦でも傷一つつかないまま東京を蹂躙し、米軍B-2から投下されたMOPⅡがゴジラの体表を突き破ったのを見て思わず拳を握ったのも束の間(劇場で思わず「さすが米軍だ」と、登場人物と同じセリフを口走った記憶がある)紫の熱線で東京を焼き尽くした、あの絶望感は忘れられない。

その点、ゴジラSPはどうだったかと言えば、PVで持ったイメージ通り、絶対的な力を持つ神、なんて話ではなかったわけだ。そもそもゴジラの本格登場は7話に入ってから、なんとも異色な感じだった。

では、面白くなかったのか?NOだ。本作ほど「次が気になる」と思わせてくれた作品はない。
本作は、作品に登場する天才たちが天才故の知的好奇心の赴くまま(もちろんほかの目的も多くあるが)「ゴジラ」「アーキタイプ」の謎を解き明かす話だ。本作は、とにかくこの謎解き描写が上手い。「わかりやすさ」と、「わかりにくさ」のバランスが非常に絶妙なのだ。キャラの言っていることが全く分からないわけではないが、全てを理解している視聴者はほとんどいない、そのくらいの絶妙な難しさが、キャラの天才さを非常にうまく描き、そしてテンポよく謎解きが進んでいく、そのワクワク感は純粋に良いものだった。SF作品としては文句なしの高クオリティで、僕含め世間での満足度も高い。また、ジェットジャガーというシリーズでもマイナーなキャラクターの大活躍も、長年のファンの心を掴んだ。アンギラス戦、クモンガ戦のバトルシーンは非常に迫力があり、怪獣バトルものとしてのクオリティも高い。このバトルもただ殴り合うわけでなく、敵味方ともに頭脳戦的な側面が強く、SFという本質とのバランスが非常にいい。

他方、本作のゴジラは非常に異色だ。それはシン・ゴジラ以上の形態変化もさることながら、本作には過去シリーズのゴジラのほとんどに存在した「核兵器との因縁」が全く描かれないのだ。
言うまでもなく、ゴジラと核兵器は切っても切れない関係にある。そもそも初代ゴジラには、戦後日本の反戦反核のメッセージが強く込められている。それは過去のシリーズでも脈々と受け継がれてきた要素だ。しかしSPのゴジラが核に関わっていたという描写はない。なにせ、本作のゴジラは「特異点」そのものであるとされているのだ。
作中でキーともなっている「特異点」というのがそもそも何なのかは正直ほとんど理解していないが、少なくとも現実世界の辞書に載っているような特異点のそれではないのは間違いないだろう。そして、これは作中においては、あくまでも科学的な何かである、という風に描かれている。そして、本作2人の主人公は、この未知の現象に、ひいてはゴジラに、その知をもって立ち向かう。

これは、ある意味これまでのゴジラのテーマに逆行するともいえる。人間の英知が作り出した創り出した、核とゴジラという厄災。初代ゴジラを倒したオキシジェン・デストロイヤーと芹沢博士の最期も含め、ゴジラ映画は人の、際限なく肥大し続ける英知と力に、ある種批判的なメッセージを出しているように思える。しかしSPは、むしろ人の知と進化を肯定し、その力を持って人の敵を倒さんとしているように見て取れる。

科学と知への向き合いの違いというのは、本作の大きな「特異点」だ。一作品としては間違いなくクオリティの高いアニメ「ゴジラSP」。しかし、「ゴジラ」という作品シリーズが、この特異点をどのように受け止めるのか。一部で見られた「この話をゴジラでやる必要はあるのか」という意見は、決して的外れではないはずだ。本作が「ゴジラとシリーズの怪獣が出たSF」となるのか、それとも「ゴジラの新しい可能性」となるか。2014年のハリウッドゴジラ、16年のシン・ゴジラ公開から、世間のゴジラ熱は間違いなく右肩上がりだ。その中で、この「特異点ゴジラ」がいかなる変化を生むのか。結果を超時間計算機で先取りしてしまうのは勿体ない。1ファンとしてこれからも、ゴジラという巨大なジャンルを見ていきたいと思う。

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