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断・断捨離

最近読んだ本の中で、特に共感した本を見つけた。
捨てない生き方 五木寛之

最近やたらに断捨離という言葉が行き交っている。
なんだか物をためているのが悪いことのような印象を受ける。
窮屈な変な生き方をしている人がいるなと思っていた。

資金を投入し、経験や、思い出を詰め込んだ宝物を捨てよというのだ。

多分、日頃何にも考えずに目の前の事物にに追われている人の考え方なんだろうと思って、かわいそうに思っていた。

「この世の中で一番無駄なものは自分なんだから、捨てるのは自分からにしろよ」
というのが私の持論だった。

そもそもこの地球において、わたしたち人間こそが「不要不急」な存在なのではないかーーーーー。
しかし、不要不急な人間にも生きる意味があるとすれば、不要不急なモノたちにも断捨離されない理由があるはずです。

捨てない生き方 五木寛之

全く百パーセント同意できる。
地球上に存在して、むやみに増殖して地球を破壊し尽くしている人間がこの地球に絶対に必要だと思っているモノたちはいないと思う。

「ものには全て命がある、全てに神宿る」としたのが日本人の古来からの考え方だ。経典はない。

日本人は神社で手を合わせる。頭を下げる。
自然の力の偉大さを知っているからだ。
それを神と呼ぶ人もいれば、偉大な力と呼ぶ人もいる。

日本以外の国では色々な宗教が発生した。
仏教、キリスト教、イスラム教、ゾロアスター教等々数え上げればキリがないほど無数の宗教が存在する。人間が考え出したものだから無限に変化していく。

仏教を創始した釈迦は信者に対して、仏教とは生きている人間に本来の生き様を教える教えなので「あの世のことを言ってはいけない」、「教団を作ってはいけない」、「葬儀に関係してはいけない」と厳命した。

インドの宗教である仏教が日本に伝わってきてどのように変化したかは皆が承知している通りだ。

ある宗教家は「この世は絶対の神がこしらえた世界」などと言いながら、他国にはこの神とは別の絶対と称する神が存在する。他国の神をなんともできない絶対の神などあるはずもない。

宗教とはこれを操るものにとっては誠に都合の良いもので、信者に対して絶対権限を持つことになる。信者は自分で考えることを放棄させられ教団の命令に従うことになる。信者は一切の疑問を挟むことが許されずに絶対服従を命じられる。

為政者はこのような便利なシステムを見逃すはずがない。自分の庇護下に置き、武力以外に思想面でも徹底的に服従させることを企む。
逆に政権を倒そうとするものは、宗教を利用し民衆に別の価値観を押し付け現政権に不信感を植え付ける。

118ページに面白い記述があった。

法然も親鸞も、富や立場や身分といったものは、もちろん最初から捨て去っています。しかし、それだけではなく身についた教養や知識というものを完全に捨てさり、南無阿弥陀仏という名号だけにすがり、赤子のような境地に達しようとして、終生、努力しました。
しかし、それはなかなか難しいいことです。法然はそれができた人かもしれませんが、親鸞は「それは難しい」あるいは「できない」と気がついた人のように思います。

捨てない生き方 五木寛之

大脳生理学の教科書の始め頃にある実験で、
「ここに梅干しがありますが、決して梅が酸っぱいなどと思ってはいけません。」
とあるが、もうこの頃には、口の中に唾液が溢れてしまい、脳はこの命令を実行できない。

仏教の一派に、座禅を組んで何も考えないようにして「空」の瞑想をする修行があるが、これも先ほどの実験と同じで、考えないようにしようと考えている時点で脳が働いてしまっていて実現不可能なのだ。

捨てない生き方
短時間でいろいろな思考訓練をさせてくれた面白い本だ。


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