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大学生警備員の小砂18:ケビン・コスナーの卒業(最終回)

ここの話は私が20代の頃のしょうもない経験と考えたことを元に回想し、解釈しているだけで、必ずしも正しい知識ではないことが含まれていることをあらかじめおことわりしておきます。

1992年、夏。私は朝の新聞配達以外は「引きこもり」のような生活から少し歩みだし、20歳の時に東京江東区のとある高層ビルで警備員のアルバイトにを始めました。夜間のアルバイトです。そして、夜勤の警備員アルバイトをしながら、21歳の時に大学生になりました。24歳で卒業後、就職をせずに浪人し、自動車工場の期間工を経て、25歳で大学院に入学しました。こんどのアルバイトも警備員ですが、場所は病院です。病院の警備は、大学生の時の警備り、警備員らしい仕事をしていましたが、これも勉強になりました。修士を終えて、IT企業で日々を暮らしていましたが、そのなかで、再び一歩を歩みだす機会を探していました。

私は会社を退職し、青年海外協力隊に応募しました。そう、大学院に入った時に同級生の2人の女性は青年海外協力隊の経験者でした。自分もやはりそこに行くんですね。いろいろ運命的な要素が組み合わさって、私はパラオという小さな島国に村落開発普及員として漁業組合の業務に派遣されました。もちろん、漁業組合の経験もダイビングの経験もありません

今思うと、それまでのすべては、パラオに行くための伏線だったのではないかと思うくらいですが(大学院の時授業をさぼった先生の専門がパラオだったり)、この話は、またいずれ別のところで書けたらと思います。

さて、かなり時間をすっ飛ばしてしまいます。すっ飛ばした時間の出来事についてはまた機会があればどこかで書きたいと思います。

青年海外協力隊の任期が終わる時、現地の知人から「日本大使館で専門調査員を募集するらしいよ、応募してみたら」と話がありました。そういえば、年齢制限もなく、修士号を持っていることが条件でした。

応募書類を外務省に送り、暫くして私は青年海外協力隊の任期を終えて、日本に帰国しました。書類審査を経て、筆記試験(論述試験)と外国人との英語面接(と日本語の面接もありました)を受けました。筆記試験の内容はパラオの経済と開発援助についてだったように思います。そして、外国人との英語面接については内容をあまり覚えていないのですが、パラオの紹介と日常会話程度だったと記憶しています。たしか、映画「マトリックス」の話をしました。

そんなこんなで、パラオの日本大使館での3年間の勤務を経験し、その間、パラオで自分の職場(の同僚)に婚姻届を提出しました。帰国後は、無職のまま妻の実家のある沖縄で半年ほど暮らし、その間、お誘いのあったジャマイカ(キングストン)への派遣をキャンセルし、ある独立行政法人で任期付き専門職員(退職者の補充ポスト)として勤務しました。日本で少し生活したかったんです。埼玉の川越での生活はなんかよかったです。外国で結婚した妻と日本のアパートでいきなり2人で暮らすと、なんかママゴトみたいで新鮮でした。

妊娠が分かるとNPOの「ファザーリング・ジャパン」の安藤さんが講師だった父親の子育て教室に参加するなどして、自分の職場でも仕事と生活の両立についてイベントなどを企画しました。

もともと外国で生活をしたがっていた妻と話し合って、では子連れで海外に行こうと決めました。私は「島嶼国でコーヒーが収穫できるところがいい」と、それとなく国際協力機構に履歴書を送る際に希望国は書いたように思います。結果、海に囲まれていない、南部アフリカのザンビアに派遣が決まりました。海はないけど、コーヒーの産地はあります。

妻は好奇心でいっぱいで直にも行きたがっていましたが、娘の予防接種(普通の予防接種に加えて、黄熱病やら狂犬病やらを打たなければならない)があるので、私だけ一人先発隊として渡航することにしました。妻と娘が2人でザンビアのルサカ空港に降り立ったのは、数か月後、娘は生後7か月でした。

ザンビアのルサカは標高が1500メートルほどあり、乾燥していて、日中の日差しは強くても全体的に日本の夏より過ごしやすいです。地下水も豊富にあります。治安も比較的良いため、小さな子供を同伴する駐在員が多い国でもあります。私がいたころは、駐在員の子どもだけで保育園ができるのではないかと言われるくらい子どもが多かったです。

在外勤務の日本人はワークライフバランスが取れている人が多かったように思うのですが、不思議なことに同じ人が本店勤務になると長時間労働になるというところに、日本人がワークライフバランスをとれないのではなくて、日本の職場に何やら怪しげな構造的理由があるのでしょう

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在外勤務では、健康管理休暇の制度等を使って長期休暇を取るのが普通です。年度が替わると、みな自分の休暇希望を共有ファイルに書き込みますし、自分が不在の時の仕事をカバーしてもらうために「裏担当」のバディを組んだりします。そして、休暇が近くなるとメールをバディと共有したり、仕事のコンタクトパーソンに紹介したりします。

海がないザンビアでしたが、タンザニア共和国のザンジバル島、フランス海外県のレユニオン島、その近所のモーリシャスなどは訪問できました。また、島ではないですが南アフリカ共和国のケープタウンなどは、とても過ごしやすいところでした。もちろん、ザンビアの国内や隣国のボツワナ共和国なども魅力的な場所が沢山あります。

ザンジバル島の帰り、ダルエスサラームで「ティンガティンガ」を購入

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レユニオン島

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レユニオン島の噴火口

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レユニオン島のマーケット

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ケープタウンのペンギン

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ザンビア(シアボンガ)

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ザンビアから沖縄に戻り、3か月くらいの間は、娘の保育園の送り向かえと論文書きをしつつ過ごし、自宅警備員となりました。毎日、保育園に迎えに行くとよその子どもたちが「あっ、いつもの暇なお父さん!」と呼んでくれます。娘は暇なお父さんと、美味しいお菓子屋さんやパン屋さんをめぐって家路につくのでした。

3か月後、ある地方国立大学で教員の公募があり、条件もギリギリでしたが、受験してみるととんとん拍子に採用が決まりました。テニュアトラックという、試用期間を経て、大学でお仕事を始めたわけです。そして、今年は9年目。

クランボルツの「計画的偶発性(Planned happenstance)」、はこれからも続きます。たぶん。計画どおりには進みませんが、計画のナナメとなりくらいの偶然のチャンスはやってくることがあります。あとは、レジリエンスをもって、持続性、柔軟性、楽観性、冒険心をこれからも少しキュキュッと磨き続けるしかないでしょう。きっと。

終わりに

今回、キャリアについて分担で授業をすることになり、忘れかけていた自分を振り返りました。書いてみると、そういえばそうだったな、と言うことも思い出せてよかったです。

そろそろ後期の授業が始まるので、その前に、完結(無理やりですが)できて良かったです。


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