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雑記:どーにもこーにも怖いし、場違いなんだけど、自意識過剰をこじらせながら今日も新たな場所に行く。

場違いなところに行くのが好きだ。

自意識過剰すぎるからかもしれないが、
別に誰も自分のことなんて見ていないのに、よく
「今、この空間でわたし浮いてるんだろうなー」ってよく思う。

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そして、大抵新しいところに行くのはめっちゃ怖い。

神経質だし小心者なので無駄に怖い。

だけど、場違いなところに行くのが好きだ。


ここはどうやら文化も違いそうだし、
着ている服もなんかちゃんとしているし、
この1週間「ほぼ友達にもらった非常食のレトルト炊き込みご飯を食べて暮らしてました」みたいな自分が、
ここにいるのは、場違いだろうな。


そう感じるところに好んでよく行く。

よく行くようにしている。

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幼少期に培われた文化や習慣は
なかなか消えないもんで
夕食は西友で買った惣菜が90%を占めていたり、
家族で旅行に行くことなんて一度もなかった、手取り20万強の経済観念の家庭で育ったこういう人は、ちょっといつもと違うところに行くだけで、だいぶ挙動不振になる。

なんで挙動不審になるかというと
そこでのあるべき振る舞い方がわからないからだ。


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はじめて吉野家に行く人が、
席に座るべきか
食券を買うべきかわからず
店に入っても店員から何も誘導されない時に挙動不審になるような感じだ。

いつもその場所を利用している人は
どう振る舞うべきかなんて考えずに
ただいつものように
いつものことを
しているだけではあるが

怖いながらも初めて行くような人は
まるで何もわからないから
正解を探そうとする。
(正解なんてないんだけどさ)

だけど、わたしは場違いなところに行くのが好きだ。
あえてそういうところに行くようにしている。

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たとえばそれは、スーツを着た研究者しか来ないようなシンポジウムだったり、
六本木の高層ビルで行われる説明会だったり、
スタートアップを志す、聞いたことのある大学の学生たちの勉強会だったり

そういうところにあえて
定期的に突入していく。

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気が合う人がいたらいいなとか
そういう期待がないわけではない。

ちゃんと期待していく。

そして、ちゃんと絶望する。

「やっぱり浮いてたし、話が弾むこともなかったな。」


行って帰って来たときに、残るのは

知らなかった世界を見てきた経験値と、なんか違うなという違和感と

やっぱり自分のお気に入りの世界は自分で作らないといかんのだなという諦念。

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だけど、場違いなところに行く。


ただの自意識だってことはわかってる。


合うか合わないかなんて
自分がどう感じるか次第だし、
勝手に合わないと感じているだけのことだ。
認識をいじれば印象は変わる。

溶け込みたかったら文化を合わせればいいだけだ。
話し方、話題、間合い、
それらをチューニングしたら
心地よくキャッチボールしている気にはすぐになれる。


それらを総合的に考えても思うんだ。


やっぱり、場違いであって
わたしはここではくつろげないし、
ここでは楽しく話せない。

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でも、定期的に場違いなところに突入していくのが好きだ。


なぜか。


全てはこさえるためだ。
こさえるための材料を集めるためだ。


違和感を感じるのは
自分の中に理想の形があるサイン。

理想がなかったら、なんでもOKと感じるはず。

理想の輪郭を掴むためには、何に違和感を感じているのか
じっくり言葉にしていくしかない。

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理想が言葉になったのなら、
曖昧なイメージを漠然と持っている状態から脱却して
世の中に対してあーだこーだ言っている暇を惜しんで
理想の形をこさえることができるようになる。


いつもの
慣れた
なんの違和感も感じない
心地よい習慣の中にいたら
行動範囲の中にいたら


違和感を強く抱くことはないだろう。


そのかわり
その場所がわたしの墓場だ。


今以上の世界には、
出会えないしこさえられない。


それは望んでいないので、場違いなところに材料を集めに行く。


今日もまた場違いな場所に行って
違和感をたくさん抱えて帰ってきた。


さて、言語化しよう。
何が気に入らなかったのかを。


全てはこさえるために。


サカキ


広大な仮想空間の中でこんにちは。サポートもらった分また実験して新しい景色を作ります。