雑記:極楽論【極を極める】

「常に極楽に居られるように」

そんなことを考えて心や考え方を定期的にチューニングしている。


極楽とは何か

仏教に精通しているわけではないので、

これは私の勝手な解釈であることを断った上で、

私の考える極楽とは、

「どちらの極も楽しめる境地である心の状態であること」と言える。


人間が住まう世界は相対世界。

光があるから闇があり

嬉しいがあるから嬉しくないが発生する。


何かを存在させるとは

そこに境界線を引くということ。


この気持ちを「嬉しい」と呼ぼうと、ある範囲に線を引く。

だから、同時にその範囲の外=「嬉しくない」も発生するのだ。


希望を作るから絶望も生まれる。

絶好調を見出すから絶不調も同時に見出される。


常にシーソーみたいなものだ。

こちらに倒れるか、あちらに倒れるか。


喜びの反対にある感情が悲しみだと仮定した時、

深い悲しみを感じないようにするには、

深い喜びを感じなければ良いのかと問われれば、

確かにそうである。


悲しみを感じないことにした感性は

喜びに対しても同じく鈍感だ。

だが、これは感じないのではなく

感性のアンテナからの信号をカットしただけだ。


本当はキャッチしているのに、

それをそれと認識しないように訓練された思考回路のなせる技。


それを虚無という。

有の世界の中で構築された虚構の無。

何も無いわけではなく、無が有るという状態。


無理やり黒いクレヨンで

絵を上書きしたような状態。


人間とは感性アンテナと感性受信機を備えたデバイスと言える。


完全に好みの話だが、

せっかくこの人間の体でこの世界に参加しているのなら

虚無に逃げ込むのはもったい無いと私は考える。

(実際一旦逃げ込んでみた結果そう思った。)


では、人間はどうしたらいい。

生きることは四苦八苦であることは避けられないのか。

全てが有限の世界では必ず喪失・別れは訪れる。

定期的に悲しみに襲われる運命からは逃れられないのか


否、それならば、苦と呼ばれるものをに接続しなおしてはどうか。

喜も怒も哀も楽に。


これが私の極楽論。


深い喜びを知りたくて深い悲しみも味わう。

それはどちらも人間の体だからなせる技。

どっちに転んでも楽しく味わい深い。


人間してなきゃ感じられぬ。

死んじまったら感じられぬ、

感情という尊い産物。


どちらの極も極めたい。

どちらの極も楽しかりけり。


この心の状態を維持することで

この世界は極楽浄土となる。


だから、今日も極を極める。

ひとつ信じて突き進みたい道ができたなら、

必ずその真逆を想像してみる。

それを否定したり批判したい心が出てくるようなら

何かから逃げるために

そのひとつを信じたんだ。


そんなもの自由じゃない。信念とも呼べない。

自由自在。

自らによりて自らが在る。

絶対自分軸でいられぬようなら極楽行きの切符は手にできぬ。


極を極めろ。

どっちでもいいと思える心から、どっちかを好みで選べ。


自由であれば極楽に居られるし

極楽にいられれば自由である。


そんな2018年の極楽論。

そろそろ周りの環境に左右されてばかりの旧人間スタイル、

卒業してはいかがですか?


サカキミヤコ


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