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徒然なるままに聖書をひらいて/働くということ

 今、仕事で福祉施設の新卒向け求人案内パンフレットの制作をしています。その中で、スタッフの方々に、「働くって、あなたにとってどういうこと?」という問いかけをしています。そのインタビューを編集しながら、しみじみ思ったのは、「働くということには2つの意味がある、ということを、みんな感じているのだな」ということでした。
 ひとつは、生活の糧を得るために、しなければならないこと、という意味。
 もうひとつは、自分自身に与えられた役割を果たすことによって、自分も喜び、周りの人に役立つという意味。
 最初はみな、ひとつめのほう、「生活の糧」のために働き始めます。でも、やがて、働くとはそれだけではないことに、気づいていく。「天職」に自分が招かれた、とわかってくるわけです。面白いなあって、思いました。それは、どちらも働くことの本質を、ついているからです。

 つれづれなるままに聖書をひもといてみましょう。

 聖書の創世記。神に造られた最初の人、アダムの物語はよく知られています。そこには、働くことが二つの意味を持つに至った経緯が、物語られています。
 聖書で最初に語られているのは、ふたつめの方です。

 神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。(創世記1:26)

 人は神によって造られたとき、仕事も与えられました。地球の生き物を治めること。今風に言えば、マネジメントです。神から与えられて果たすべき役割が、人には世の初めからありました。

 次に語られるのが、ひとつめの方。「生活の糧」です。

 アダムははじめ、エデンの園にて、食べることには困りませんでした。「善悪を知る木」以外ならどの木からでも、好きに取って食べていい、と言われていたからです。ところが、ご存知のように、アダムは、まず妻のエバがへびにそそのかされて、食べてはいけないといわれていた「善悪を知る木」から実を取って食べ、アダムにも勧めたので、彼も食べました。その結果、神からこのように言い渡されました。

 更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、
 地はあなたのためにのろわれ、
 あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。(創世記3:17)


 「生活の糧」のために、と考えると、働くことはあまり楽しいことではありません。楽しくない、むしろ苦しい。それは、ひとつの真理です。個人の努力や考え方では、どうにも変えられないこと、といってもいいかもしれません。最初の人、私たちの先祖であるアダムが犯した罪のために、私たちははじめから、この罪を負って生まれてくるからです。

 けれども、それでも働くことに喜びがあるのは、ふたつめの意味、「天職」が決してその罪によって奪い去られたわけではないことを、物語っています。アダムには、その必要はなかったのにもかかわらず、地を治めるという仕事が与えられました。その仕事の一つとして、すべての生き物に名前をつけた、と聖書には書かれています。

 新しい社会人が働き始めた、春。「生活の糧」を得るために働くことは、楽しくありません。でも、働くことに、あなただけに与えられた果たすべき役割を見いだしたとき、それは喜びになっていくでしょう。それは人からではなく、あなたを造られた方、主なる神からくるものだからです。

 新しい働き人に、神様の祝福がありますように。

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