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徒然なるままに聖書をひらいて/復活したあと、どうなった?(2)

 去る4月20日(日)は、キリストの復活を祝う「復活祭」でした。復活祭の意味については
「もうすぐ復活祭」と題して、お話しましたので、興味のある方はぜひどうぞ。復活したあとはどうなったの? というテーマのお話し、2回目です。

 イエスは死んで墓に葬られ、三日目に死から復活されました。その後40日間にわたって、弟子たちの前に姿を現され、ともに食事をし、いろんなお話をされました。そのとき、弟子は「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。(使徒行伝1:6)とイエスに質問しました。彼らは、イエスにイスラエル王国の復興を期待していたからです。ところが、イエスの思いは、まったく違っていたのです。イエスは弟子たちに、このように答えられました。

 彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。」(使徒行伝1:7)

 つまり、父=天の神様が時期を決めておられるけれども、いつ、どんなふうにと今教えることはできない、というわけです。そして、このように言葉を続けられました。

 「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう。」(使徒行伝1:8)

 なんかよくわからないけど、聖霊というものがくだってきたら、力を受けて、イスラエルから地のはてまで、イエス・キリストの証人となる、というのです。ちなみにエルサレムはイスラエル(分裂後は南王国ユダ)の都、ユダヤは今のパレスチナ、サマリヤはもともと南北に分裂後の北王国イスラエルの都でしたがアッシリア王国の侵攻を受け、この地に住んでいたユダヤ人と侵入してきたアッシリア人とが混血したため、サマリヤ人という異邦人になったとみなされていました。イエスの時代、ユダヤ人はサマリヤ人と交際しない、という掟を作っていました。

 そのような、すぐ隣にいて口もきかなかった異邦人の地から、地のはてまで、イエスのことが知られるようになる、知らせるのがあなたたちなんだよ、とイエスは言われたのです。私たち日本人はというと、もちろん、この中では「地のはて」の住人ということになります。その私たち日本人の間でも、このようにイエス・キリストについて語られ、聖書が読まれているということは、キリストの言われたことが、その通りになったという証といっていいでしょう。

 しかしそんなことを言われても、その当時のイエスの弟子たちにはまだ、何の実感もなかったでしょう。え、それってどういうことですか? もっと教えてくださいよー、と言いたかったかもしれません。しかし、イエスは、そう言い残して地上から去っていかれたのです。

 こう言い終わると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて言った、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう。」(使徒行伝1:9〜11)

 こうして、復活されたイエスは、天に上っていかれたのです。取り残された弟子たちは、とにかくイエスの言われたことに従っていました。「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい」ということでした。それなのに、イエスは「いつになるかは、分からへんで〜」と言い残したまま、姿を消してしまわれたのです。

 エルサレムは決して彼らにとって、安全な場所ではありませんでした。だからこそ、弟子たちは生まれ故郷のガリラヤという田舎町に引きこもっていたのですが、そう言ってイエスが去ってしまった以上、エルサレムに留まって、なんか、よう分からへんけど、待っているしかなかったのです。

 使徒たちの大活躍の始まりの前、まだ彼らはリーダーを失った烏合の衆でしかありませんでした。

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