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徒然なるままに聖書をひらいて/なぜ神は?

 イエスを信じる信仰に入る前から、多くの人は、聖書の有名なエピソードについて、どこかしらで見聞きして知っています。私もそうでした。そして、不思議に思うことがありました。

 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。(創世記3章8〜11節)

 神はすべての創造主であり、思うがままに天地万物を造り上げ、最初の人であるアダムとエバを造った。そして、神はすべて過去、現在、未来を見通す力のある方である。当然、アダムとエバが、神の言われた命令に違反して、罪を犯すことを知っていたはずだ。なぜ、罪を犯さないような人を、造ろうとしなかったのか。

 イエスはこれらのことを言われた後、その心が騒ぎ、おごそかに言われた、「よくよくあながたがに言っておく。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」。弟子たちはだれのことを言われたのか察しかねて、互に顔を見合わせた。(ヨハネによる福音書13章21〜22節)

 イエスは神の子だと言っている。12人の弟子たちの中に、裏切る者がいることを知っていながら、彼をそのままにしておき、彼が裏切って自分から出ていくまで、なすがままにしていた。なぜ、裏切ると分かっていながら、先手を打たずになすがままにしていたのか。

 でも、今ではそうしたことを、不思議に思わなくなりました。難しい真理を発見したわけではありません。そうではなくて、考えてみれば当たり前のことに、気付いたのです。そのことを教えてくれたのは、私が1994年から2007年まで飼い、ともに過ごしていたゴールデンレトリバーのチャーリーでした。

 チャーリーは、両親が仕事の都合で渡米し、妹と二人で自宅で暮らし始めて間もないころ、友人に譲られて飼い始めた犬です。私と妹にとって、犬はもちろん、ペットを飼うのは初めてのことでした。生まれて3ヶ月で我が家にやってきた犬は、まだ名前がなく、生まれた順番で「9番」と呼ばれていました。私たちは最初に、彼に「チャーリー」という名前をつけました。

 ゴールデンレトリバーは、成犬になれば体重が30キロを超える大型犬です。従順でおとなしく、人なつこい性格ですが、それはきちんとしつけて、本来の性格が出せればであって、そうでなければ、人を傷つけてしまう可能性もありました。私はいまだかつてないほど、責任という言葉の重荷を感じたことを思い出します。

 当然ながら、三ヶ月の子犬はまだしつけも出来ていないし、自分がともに暮らすことになった家族のこと、まわりの人々や環境のことなど、なにも知りません。それを教え、人間社会にとけ込み、そででいてゴールデンレトリバーとしての「らしさ」、チャーリーという犬としての「キャラクター」が活かされ、まわりに受け入れられるように育てるというのは、飼い主である私の役割だ、という重荷でした。

 なにしろ、犬と付き合うのははじめてだったので、何冊も指南書を飼って読みあさって勉強しました。トイレのしつけ、「すわれ」や「まて」「ふせ」など基本動作のしつけ、遊んでいいおもちゃと、触れたりかじったりしてはいけない家具や靴やその他もろもろとの区別、部屋の入ってよい場所と入ってはいけない場所、人との接し方や散歩するときの歩き方などなど…、人間が犬に教育するっていうのも不思議な話ですが、いろんなことを教えてあげなければいけません。

 トイレのしつけは、すごく難しくて最初はなかなか思うようにいかず、「あ~、最初からしつけられた犬だったら良かったのに」なんて思ったこともありました。でも、今になって思うんです。もし、最初からなにもかもしつけられて、きちんと出来る犬だったら、どうだっただろうか。こんなにも、一緒に過ごすことが楽しく、この犬の存在を喜びと感じることが出来ただろうか? 何もかも、自分の思った通りに出来る、問題なく最初から教えずとも暮らせる犬だったら? 

 そう思うと、実は、犬を飼うことの楽しみの中に、彼が(そして彼とかかわる自分が)失敗したり、うまく出来るようになったり、信頼関係を築くことができるようになる、という成長のプロセスを味わうことが、大きな位置を占めている、ということに気づきました。

 神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのであ る。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛してくださって、御子をおつかわしになった、ここに愛がある。(ヨハネの第一の手紙4章10〜 11節)

 愛という感情は、その対象との相互的な関わり、働きかけ、応答する(ときには拒絶したり、反抗したり)という交流、そして相互の成長があってこそ、芽生えてくるものなのではないでしょうか。「神は愛です」とよく言われます。神が愛であるならば、完璧に、思い通りに動く完成品ではなく、自らの働きかけと応答、交わりによって人が成長し、互いにより親密な感情を持って接することができるようになるプロセスを楽しみ、喜ばれるはずだと。

 だから、神様はアダムとエバが、罪を犯すことを許容し、にもかかわらず人々が、神に還ってくるプロセスを、喜ばれました。イエスはイスカリオテのユダの裏切りをあらかじめ予見しながらそれを許容し、ご自身の十字架を背負って歩まれたのです。私たちがその意味を悟って悔い改め、ご自身の元へ引き寄せられるというプロセスを楽しみ、喜ばれるために。

 それは、応答する私たちにとっても、大きな喜びと楽しみのあるプロセスなのです。


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