見出し画像

徒然なるままに聖書をひらいて/もうすぐ復活祭​

 次の日曜日は、キリスト教最大のイベント、復活祭(イースター)です。東京ディズニーランドでは「ディズニー・イースター」と題してイベントを開催するようですが、クリスマスと比べると、日本ではあまり広まっていないイベントですね。ちなみに、ディズニーランドのホームページを見ると、「ディズニー・イースターは春の訪れをお祝いするお祭りです」と説明されていますが、本来のイースターは、十字架の上で死なれたイエス・キリストが墓に葬られ、三日後によみがえったことを記念して祝う日です。

 クリスマスも、本来の意味はイエス・キリストの生誕を祝う日でした。でも、今ではそれよりも、「サンタクロースがトナカイの引くソリに乗って、子どもたちにプレゼントを届ける日」になってしまっています。本来の主が覆い隠されてしまったのです。イースターには、サンタクロースに匹敵するキャラクターが見当たらないし、プレゼントを贈るような習慣もないので、それほどビジネスに利用されずにすんでいる、というところでしょうか。

 イエス・キリストが復活したのが、日曜日。その直前の金曜日は「受難日」と言われています。今日は、イエス・キリストが十字架にかけられて、死なれたことを覚える日なのです。では、一体何のために、イエスは十字架刑に処されなければいけなかったのでしょうか。

 実はイエスが十字架にかけられたとき、他に二人の犯罪人が、一緒に十字架にかけられました。十字架刑とは、ローマ帝国で執行されていた中でももっとも残酷な刑罰だといわれています。十字架にかけられると、胸に自分の体重がかかるため、横隔膜が圧迫されて、呼吸ができなくなります。そして、息ができない苦しみにもだえながら、何時間もかけてゆっくりと死に至る、というところに、この刑罰の残酷さがありました。
 そんななか、イエスと二人の犯罪人が十字架の上でかわした会話が、聖書に書き記されています。

 十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互いは自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。(ルカによる福音書23:39~43)

 他の二人の犯罪人とは違い、イエスは「何も悪いことはしていない」のに、十字架にかけられました。それはなぜなのでしょう。実は、先日「働くということ」と題して書いた中に、その答えがあります。最初の人、アダムが神様にそむいて食べてはいけないという木の実を食べたため、私たち人間は、「生活の糧を得るために、苦しみ、汗を流して働かなければならない」という呪いを受けました。アダムの子孫である私たちはみな、生まれながらにこの罪を負った罪人なのです。そのためでしょうか、私たちは、生まれながらに、嘘をついたり、人を無視したり、嫉妬したり、人のものを盗んだり、という行動を自然に身につけていきます。

 十字架にかけられた犯罪人のひとりが言うように、「自分のやった事の報いをうける」べき罪科を、一人ひとりが負っている。イエスは、その罪を代わりに負って、自分は何も悪いことはしていないのに、身代わりに刑罰を受けてくれた、ということなのです。それによって、アダムという一人の人が犯した罪によって受けた呪いを、自らの命を犠牲としてささげることによって、解いてくれた、ということなのです。

 イエス・キリストを信じるということは、このことを信じることです。そして信じた人はもう、罪と呪いの下にはいません。

 「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。(ヨハネによる福音書11:25~26)

 読んでくださった方に、神様の祝福がありますように。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?