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徒然なるままに聖書をひらいて/聖書と進化論

 この間、NHKオンデマンドで「地球大進化~46億年・人類への旅」という番組を視聴しました。2004年4月から11月にかけてNHKスペシャルとして放送されたもので、地球の誕生から人類の誕生までを、最新と思われる学説をつなぎあわせて一本のストーリーにまとめたものとなっています。科学的な分析と、それをもとにした見事なCGによる映像美が展開され、なるほど、このようなはるかな進化の歩みによって「あなたがたの先祖」は原始生物から高度な人類へと進化をとげたのだ、と納得させる内容でした。

 これを視聴して、「ここまで科学的な解明が進んでいるのなら、もしかして、進化論は本当なのかもしれない」という気持ちになりました。神は、進化というプロセスを用いてこの天地万物を創造されたのだろうか? 科学の前に、聖書の解く真理は古びてしまったのだろうか?
 そこで、改めてもう一度、聖書を開いて「創世記」を読み直してみました。

 結論からいうと、やはり、聖書と進化論とは、一点たりとも交わることのない、共存することのできない世界観であることがわかりました。それはなぜなのか、というのは折をみて徒然に語っていきたいな、と思っていますが、今回は、聖書と進化論、二つの世界観の「違い」と、なぜ、それが相容れないか、についてお話ししたいと思います。

 聖書に書かれているのは「地球大進化」とは真逆の世界、「天地大創造」です。聖書を開いて一番はじめ、「創世記」の最初の一行にはこう書いてあります。

 はじめに神は、天と地とを創造された。

 世界に「はじめ」がある、という発想はどこからきたのでしょうか。間違いなく、聖書からです。私たちの生きている世界には、「はじまり」があり、やがて「終わり」が来る。これは、明確に聖書が語っている世界観です。

 進化論でも、同様に私たちの生きている世界には「はじまり」があることを説明しています。宇宙は「ビッグバン」によって始まった、と私たちは学校で習いました。しかし、それを見たものはいません。これは理論であって、「宇宙には始まりがあるかもしれない」というものの見方があり、それを理論化し、観測によって裏付けようとするものです。したがって、これも一つの世界観ということになります

 聖書を読みながら、私は(そしてほとんどの人も同様に)このように思っていることに気づきました。現在の世界は、過去の世界と一本の途切れることのない「時間」という線でつながっており、現在に残された痕跡や、様々な事象を調べることによって、時間を遡り、過去についても正確に知ることができるはずだ、と。

 進化論とは、そのような大前提の上で、現在起っている現象や、現在の世界の様々な様相と、今の世界に残された過去の痕跡から、現在の世界の万象がこのようになったプロセスを探っていく、というものです。

 しかし、聖書の世界観では、そもそもそのような大前提に立ってはいない、ということが、今回改めて「創世記」を読んではっきりと分かりました。確かに、現在と過去とは途切れることのない「時間」の軸でつながっています。しかし、そこには、乗り越えることのできない大きな「壁」があるのです。したがって、どれだけ正確に、綿密に現在に残された過去の痕跡を調べても、決して「はじまり」にはたどり着けない、というわけです。

 その、乗り越えることのできない大きな「壁」とは3つあります。1つ目は、「ギャップ・セオリー」といわれる創世記1章1節と2節の間の「壁」、2つ目は、アダムとエバの「原罪」と「楽園追放」、そして3つ目は、「ノアの大洪水」です。私たちは、聖書の記述に従えば、「ノアの大洪水」によって再創造された世界に住んでいることになります。

 聖書は、この「壁」は人間の力で乗り越えることができないもの、と教えています。この壁の名を「罪」といいます。罪のある状態の世界から、罪のない状態の世界に戻ることはできません。唯一、それを可能にしたのは、イエス・キリストの十字架の贖いです。それが、聖書全体のアウトラインです。

 そのことをもう少し詳しく解説してみましょう。そのために、3つの「壁」について、お話しします。

一つ目の壁は、創世記1章2節の記述です。

 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。

 これが「はじめに神は天と地とを創造された」の次の文章です。一読すると、造られたばかりの地はまだ、茫洋とした塊のようなものだったのか、という感じがしますよね。

 しかし、旧約聖書の原語であるヘブル語の記述で「むなしく」と翻訳されている言葉は、「トーフー・ヴァ・ボーフー」という言葉で、これは、殺風景で空っぽな、という状態を示す言葉だそうです。茫漠、とも翻訳されています。ここに、一つの「壁」がある、という解釈があります。それが「ギャップ・セオリー」です。「トーフー・ヴァ・ボーフー」という表現は、この箇所のほか、聖書の中では、イザヤ書34:11、エレミヤ書4:23だけに登場する、かなり特別な表現なのだそうです。そして、文脈からこの状態は「裁きが下されたあとの状態」であることがわかります。そうしたことから、創世記1章の1節と2節の間に、明文化されていない出来事がある、ということ。「天使の堕落、それによる主の裁き」が、そこであったのだ、ということ。それが「ギャップ・セオリー」と呼ばれる聖書解釈です。創世記1章の1節と2節の間に、描かれていない間隙(ギャップ)があり、そこで天使の堕落と裁きがあった、ということです。

 これは、その後の記述で、よく知られているエデンの園にエバを誘惑したサタン(堕落した天使)がすでに存在していたことの説明にもなると思います。しかし、この出来事について、聖書は多くを語っていません。神はそれを創世記の記述に加えられませんでした。それがなぜか、は分かりませんが、はっきりしているのは、この出来事は、私たち人間が造られる以前のことであって、私たちには深く知る必要も、また、負うべき責任もない、ということです。ただ、この「ギャップ」によって、最初に創造された天と地、「トーフー・ヴァ・ボーフー」と表現される前の状態の天地がどんなものであったかは、ほとんど知ることができない、つまり「壁」がある、ということがわかると思います。

 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。(創世記1章2節)

 神は、この「トーフー・ヴァ・ボーフー」の状態の中で、水のおもてをおおわれていました。これが、私たちが生きる世界のはじめ、天地創造の最初の状態です。

 ここから6日間で、神が天地を創造し、また神の姿に似せて人間を造られたことが、創世記1章で書き記されています。2章では、6日目、神が人間を造られたときのことを掘り下げています。そして、3章。ここで、二つ目の「壁」が出現します。ご存知、エバの誘惑と楽園追放に至る物語です。

 エデンの園で、神はアダムにこう告げました。

 主なる神はその人に命じて言われた。あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。(創世記2章16、17節)

 しかし、ご存知のようにへびに騙されたエバが、善悪を知る木の実を取ってたべ、アダムにももすすめてアダムもこれを食べました。こうして人は、神に反抗し神から離れていきました。これが「罪」です。そして「それを取って食べると、きっと死ぬであろう」と言われたことが、現実となりました。

 といっても、創世記5章5節にあるとおり、アダムはすぐには死なず、930歳という驚異的な長寿をまっとうします。なんだ、死んでないじゃないか、と思うでしょう。でも、そうではないのです。そもそも、最初に神が創造された世界には、「死」というものがありませんでした。「罪の支払う報酬は死である(ローマ人への手紙6:23)」とあるように、アダムが罪を犯したことによって、世界全体に「死」がもたらされたのです。聖書は、神がアダムとエバをエデンの園から追放した理由について、次のように書き記しています。

 主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。(創世記3章22~23節)

 永遠に生きることが可能だなんて、私たちには、とてもバカバカしい絵空事のように思えます。一方の進化論はどうでしょうか。進化論の根拠となる一番の証拠を提供しているのは、化石。過去に生きていた生物の死骸です。つまり、「死」が積み上げられて出来た世界です。もし、「死」を前提にした世界の前に、「死」のない世界があったとしたら、どうでしょうか。「死」という痕跡から、それ以前の世界をたどることは出来ません。

 「死」がないなんて、あり得ない。そんなふうに思う人も多いでしょう。でも、考えてみてください。なぜ、iPS細胞を喝采で迎えたり、STAP細胞があったのかなかったのかで大騒ぎするのでしょうか。科学的に「不老不死」を実現することが可能になるかもしれないから、ですよね。それが可能であるような細胞のはたらきが、あらかじめ組み込まれているという事実があることを発見したから、ではなでしょうか。だとすれば、「死」のない世界がかつてあったとしても、不思議ではない、ということになります。

 こうしてエデンの園を追放されたアダムとエバは、それでも長寿をまっとうし、多くの子孫を残して死にました。このアダムの系譜から生まれた子孫が、「ノアの箱舟」の物語で有名なノアです。ノアの時代に、神は大洪水を起こして地上に住む人間すべてを滅ぼすことを決意しました。世界的な大洪水によって、神が創造された世界は大変動し、今見るような姿になりました。また、ノアと7人の家族以外の人は滅ぼされたので、その後に生きる人はみなノアの子孫ということになります。この大洪水による滅びと変動とが、三つ目の「壁」です。

この大洪水を起こすに至った経緯について、聖書はこのように説明しています。
 
 人が地のおもてにふえ始めて、娘たちが彼らに生れた時、神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。そこで主は言われた、「わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼は肉にすぎないのだ。しかし、彼の年は百二十年であろう」。
 そのころ、またその後にも、地にネピリムがいた。これは神の子たちが人の娘たちのところにはいって、娘たちに産ませたものである。彼らは昔の勇士であり、有名な人々であった。主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。(創世記6章1節~7節)

 ここで目を引くのが「神の子」、そして「ネピリム」という存在です。これは一体なんでしょうか。実は最初に説明した「ギャップ・セオリー」と関係があります。天使が堕落して地に堕ちたわけですが、ここでいう「神の子」とは彼ら、地に堕ちた堕天使のことだ、という解釈が「ギャップ・セオリー」によって出てきます。天使というのはどういう存在かというと、聖書の中では基本的に、男です。西洋のキリスト教会絵画における表現とは違って、天使には翼は生えていないし、だいたいいつも、オッサンです(笑)。天においては娶ったり子どもを産んだりしないものですが、彼らは天から堕ちてしまったので、人間の娘をかどわして子どもを産ませるようになりました。それが「ネピリム」、天使と人間との間に生まれた子ども、ということになります。
 こうして、人と堕天使とが交わった結果、地上には悪がはびこるようになりました。神は大洪水によって、この悪の根源である人を地上から葬り去ることに決めたのです。しかし、ノアは神の目に留まりました。彼は地にはびこる悪に染まることがなかったのでしょう。それゆえに、神はノアと家族を通して、神が造られた人とその世界を生きながらえさせ、この地を再生させることにしたのです。
 この大洪水はどういうものだったか。

 それはノアの六百歳の二月十七日であって、その日に大いなる淵の源は、ことごとく破れ、天の窓が開けて、雨は四十日四十夜、地に降り注いだ。(創世記7章10~11節)

 大洪水なのだから、大雨が降ったのだ、というのは確かにその通りです。それだけでなく、「大いなる淵の源は、ことごとく破れ、」とあります。地が裂けて、そこからも水が噴出してきたのです。この大洪水によって、地上はすべてが水没しました(もしそうでなければ、箱舟を造って浮かべる必要はありません。水のこない場所に移動すればよかったのです)。

 このことによって、地上に残されたすべての生物は死に絶えました。また、大規模な地殻変動も起きたと考えられます。まず、エデンの園は間違いなく、失われてしまったでしょう。それもこの大洪水の目的の一つだったかもしれません。こうして地上から消し去られたものがある以上、地上に残された痕跡をどれだけ綿密に調べても、原初の姿を知ることは決してでいないでしょう。
 天使の堕落、アダムの原罪によってもたらされた「死」、そして、地上から悪に染まった人をぬぐい去るための大洪水。この三つの壁が、今私たちが生きる世界と、「はじめに神は天と地とを創造された」と書かれている、その世界とを大きく隔てています。

 さて、「地球大進化~46億年・人類への旅」という番組についてです。進化論をもとに展開されたこの物語は、非常に興味深いものでした。なぜ、こういう物語が必要とされているのでしょうか。やはり「神」という存在がいないということを前提にした場合の、この世界の成り立ちについての物語を、人々が必要としているからだと思います。しかし、科学的にこれを解明するのは、とても難しそうです。私たちは、科学の粋をもってしても、50年に一度といわれた大型台風がどこからどこへ向かっていくのか、明日のことさえ正確に予想することができません。200年前に、100年に一度というような超大型の台風が来たことがあったとして、その過去の台風の進路を、災害の痕跡から正確に割り出すことができるでしょうか。


 ちなみに、「地球大進化~46億年・人類への旅」では地球の誕生についても、生命の誕生についても明確な説明がありませんでした。2010年に、行方不明状態を乗り越えて無事、地球の大気圏再突入を果たして帰還したことで話題になった、小惑星探査機「はやぶさ」。その目的は、小惑星の表面サンプルを持ち帰ることでした。こうした研究は何のためでしょうか。そこに、生命のもととなるアミノ酸が存在する可能性があると考えられ、生命の起源を解明する一助になると期待されているのです。生命の起源は、どうやら地球の上には認められそうになく、今度は宇宙を探してみよう、ということなのです。
 宇宙の深淵に、生命の起源は見つかるのでしょうか。なぜ今唯一、生命であふれている地球ではなく、地球の外の小惑星や、そのもっと先の天体に起源を求めなければならなくなったのでしょうか。この世界の物質や事象を調べれば、やがては解明されることなのでしょうか。私にはわかりません。ただ、聖書が語っているのは、こういうことです。

 わたしがはじめに創造された世界は、今、あなたがたが生きている世界と全然違って、ずっとずっと、素晴らしかったんだよ。その素晴らしい世界に入れるように、わたしは愛する息子をあなたがたの元に送ったのです。

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