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伝説的スラッガーを描くベースボール・ファンタジー 映画・ナチュラル The Natural(1984)

プレイヤー/ロイ・ハブス Roy Habbs 35歳             所属球団/ニューヨーク・ナイツ NEWYORK KIGHTS               背番号9 ポジション ライト 左投げ・左打ち 打順 3番

  タイトルの「ナチュラル」とは「天性の才能」という意味。英語で「ギフト」と言われるように、これは神からの贈り物だ。主人公のロイ・ハブスはまさに野球のために生まれてきたような天才児。その才能を見いだした父親は若くして死んでしまうが、ロイはその才能を開花させ、20歳でシカゴ・カブスの入団テストを受けることになる。

 野球で天才とくれば、日本でいうなら長嶋茂雄だ。私は彼の現役時代を知らないから、本当の意味でその価値を知っているとはいえないが、例えば作家の海老沢泰久が「彼のプレーを観なければ夜も日も明けない」というくらいで、往年の野球ファンには今もなお瞼に焼き付いて離れないくらいの強い印象を残している。では、長嶋茂雄の人生は映画になるかというと、そうはならない。彼はいくつもの劇的なプレーを演出したかもしれないが、彼の人生は劇的とはいえまい。挫折がないからだ。あれほどの大選手だったのに、現役を引退して監督になってからの彼はいわゆる「天然」キャラで、私はついぞ長嶋茂雄の口から含蓄のある言葉を聞くことがなかった。

 かつて阪神タイガースに在籍した坪井智哉選手について、長嶋茂雄のライバルであった野村克也監督は「あいつは天才やからな。天才は自分でもなんで打てるか分からんで打っとるんや。だから打てなくなった時も、なんで打てなくなったか、自分でも分からんのや。まして他人が分かるわけない」といって2軍に落としたというエピソードがある。ロイ・ハブスも劇中で何度も「打てなく」なり、かと思うとある日突然びっくりするような球を「打つ」ようになるが、打てなくなったのも、打てるようになったのもなぜかは説明されないし、分からない。ただ言えることは、「それが天才なのだ」ということだけだ。

 そんな天才ロイ・ハブスだが、シカゴに向かう旅の途中でその才能の片鱗を新聞記者マックス・マーシーに見せただけで、球界にデビューすることなく消え去ってしまう。そして16年後、35歳になったロイ・ハブスが新人選手として異例のメジャー入りを果たす。若さも体力も、そして経験もない。彼にあるのはただ「天性の才能」だけ。それだけで、万年最下位のポンコツチームを変えていく。まさにこれこそ野球の世界のファンタジーといえるだろう。

 ファンタジーの世界に光と闇があるように、この野球の世界にも光と闇とがある。「野球賭博」と「八百長」だ。野球映画の悪役といえば、だいたいが常勝のライバルチーム(日本なら読売ジャイアンツ、メジャーならたいていがニューヨーク・ヤンキースということになる)になるのが常だが、『ナチュラル』ではそうではなく、謎の経歴を持つ天才を食い物にしようとするマスコミと、賭博で大金を動かす球団オーナーが主人公に立ちはだかる敵となる。このあたりは、「ブラックソックス事件」と呼ばれる八百長事件で永久追放となった伝説的な強打者“シューレス”ジョー・ジャクソンをモデルにしているのだろう。もしシューレス・ジョーが八百長を断っていたら、というある種のファンタジーが、物語の背景に織り込まれているのだと思う。

 そういった野球映画的要素に加えて、この映画に不思議な色彩を加えているのが3人の女性、そして3人の少年の存在だ。3人の女性とは言うまでもなく、ロイが結婚を誓った恋人のアイリスと、ロイを撃った謎の女ハリエット・バード、そしてメジャーリーガーになってから付き合うようになったメモという情婦である。メモと付き合いだしたとたんにロイはどんどん成績が下がっていき、チームも負け続けるようになる。そんな時にアイリスが現れ、彼女との再会によってロイは本来の自分を取り戻していく。それがなぜかは説明されないが、最初にシカゴのカフェでアイリスと再会したときのロイと、緊急入院先に見舞いにきたアイリスと話すロイとの変化には、ロバート・レッドフォードの素晴らしい演技とあいまって、何度見ても感動させられる。恐らくカフェでアイリスと再会したとき、ロイははじめて自分が過ちを犯したことに気付いたのだ。そのとき彼は「脇道にそれた」と表現するが、病院のベッドの上で、彼はハリエット・バードに撃たれた原因が自分の浮気心で、アイリスに対する裏切りであったと認める。判事とガス、メモの悪徳3人組にきっぱりと八百長はしないと宣言するのはそのあとだ。その場面で、ロイとメモの間に「前にも会っていた」という不思議なやりとりがあり、何度観ても「これはどういう意味だろう」と思うのだが、それはこのロイの悔悛と関係があるのかなあと、ふと思ったりする。

 3人の少年というのは球団のバット・ボーイのサヴォイ、ラスト・ゲームの最後に登場する新人投手、そしてアイリスと彼との息子だが、産婦人科病院から出てきてラスト・ゲームに臨んだ彼が、最後の打席でまさにこの3人に息子としてそのすばらしい遺産を受け渡してみせる。雷が落ちた木で手作りした愛用のバットが折れたとき。サヴォイから、ロイに教わりながら作ったであろう「サヴォイ・スペシャル」と刻印したバットが渡される。対戦するのはネブラスカ州出身の新人左腕投手。映画のはじめ、20歳のロイ・ハブスが余興で大打者ワマーを三球三振に打ち取った、その場面を目撃し、汽車に乗る間際のロイからボールをもらった、あの少年だ。そして最後の一球を待つロイ・ハブス。2-0で迎えた9回裏、ランナー1、3塁でカウント2-2。何という、何というドラマティックな大舞台だろうか。わかるのだ、彼が最後に逆転サヨナラ3ランホームランを打つことは。ここで打たなかったら、映画じゃない。そして、そうなると分かっていても、最後は感動してしまう。ぐんぐんと夜空に伸びる打球は外野席上の照明灯を直撃。そして火花が飛び散って…。

 スタジアムの感動が、画面の前にいる私に舞い降りてくる瞬間。

 そして、ラストシーンの父子のキャッチボールを観て思う。女はその体から息子を産み、男はその生き様で息子を生むと。それがありのままの「ナチュラル」な男女の姿なのだ。




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