動揺する私

動揺するのは楽しい? カミングアウトとエロティックな「動揺」

カミングアウトは、された側をもかき乱す。
私が母へカミングアウトしたとき、彼女は、過去の記憶の、余っていたジグゾーパズルのピースの場所を見つけたかのように、ある遠い親戚の叔父のことを語っていた。
その人は、母の田舎の外れの方でひっそりと生活していたらしい。
一人暮らしをしていたその叔父は、田舎の外れの土地で、一人で暮らし、人付き合いも少なく、しかし稀に男性と会っていたらしかった。
母も実際には、その現場を見たことがあったわけではないのだろうなと、その語りから私は感じたが、その多数派の社会からのネガティブなまなざしを母は記憶の片隅に残していた。
「あの人も、そうだったのかもね」
と母はもらした。
僕は、五島列島の外れで生きていた、もはや誰も語ることのない、僕とどこか似ていたかもしれない誰かを記憶する。
僕のカミングアウトは、母の記憶を呼び起こした。
カミングアウトは、された側を「動揺」させる。そして、それによって、その人が変わることもあれば、その人と関わりのあった誰かが再評価されることもある。


先日のイヴ・コゾフスキー・セジウィックの『クローゼットの認識論』の読書会で、なるほどと思ったことがあった。
セジウィックは、反ユダヤ主義とホモフォビアといった抑圧の形態が他の抑圧ー人種差別、ジェンダー、年齢、体格、身体的障害といった目に見えるスティグマ-よりも似ていると述べた上で、しかしながら、その2つには差異があると述べている。ユダヤ人の物語との対比の中でゲイアイデンティティをカミングアウトすることの差異を7つの項目にわたって説明している。その中の一つが以下のようなものである。


”ゲイのカミング・アウトの場にある、互いを偽つける諸刃の可能性は、ある程度、秘密を打ち明けられる人間のエロティック・アイデンティティが、カム・アウトした人間のエロティック・アイデンティティに関わり合っており、それゆえに、動揺させられる、という事実に起因する。これは次の二つの点から事実であると言える。第一にそして一般的には、他の何よりもエロティック・アイデンティティは、単にそれ自体として境界を画されることが決してなく、関係性から離れては決してあり得ず、転移と逆転移の構造の外側にいる人間に気づかれたり知られたりするものでは決してないからである。第二に、そして特殊的には、二十世紀文化におけるホモセクシュアル・アイデンティティの一貫性のなさと矛盾とは、強制的ヘテロセクシュアリティの一貫性のなさと矛盾とに対応しているからであり、それゆえにヘテロセクシュアリティの一貫性のなさと矛盾とを喚起するからである” (セジヴィック, 1990;114-115)


私達がゲイ「である」とカム・アウトするとき、アウトされた側の方が動揺することがある。その動揺の中には、様々なものがある。親しい「友人」だと思っていた人にカミングアウトされ、「あなたが好きだ」とまで言われてしまった際に、友人だったと思っていたにも関わらず、そこにエロティックな何かが入り込んでくる可能性はある。同じ「異性を好きになる同性」だと思っていたからこその関係性だったものが、突然変化する。同じハンバーガーチェーンのポテトを食べて、同じ授業を受けて、同じシャワールームで裸になっていたではないか、と気づくとき、同質性を十分に備えたアウトした人と私の日々の行為が近ければ近いほど、私は今まで彼と共有してきたと思ってきたエロティックなアイデンティティへのゆらぎが生じうる。
異性愛だと思いながらも憧れてしまう同性の筋肉、あるいは、歯並びの整った歯。
異性愛を前提としていたからこそできていた同じ空間でのマスターベーション。
異性愛を前提として行われる体育会系の部活での、先輩ー後輩間でのサランラップを巻いたフェラチオ。
異性愛の一貫性のなさは、同性愛であるというアウトの瞬間に、アウトされた相手を激しく動揺させる。



先日の読書会で、私達は、「動揺」とは何かという話題で脱線していった。
エロティック・アイデンティティが、「動揺」するとはどういうことか。
「動揺」はしたくないものなのか。
「動揺」はポジティブな感情なのか?ネガティブな感情なのか?
私達はそういったことを話し合っていた。


「最近、動揺したことはなんですか?」
と一人の参加者が聞いた。
私はなんだろう。
家の前の道路に蛇がいたこと、アルバイトがなかなか決まらない生徒の話(この前のnote参照)、朝おきたら猫が窓の外からこちらを覗いていたこと(網戸を破って逃げ出していた)、えんどう豆に虫がいたこと(この前の前のnote参照)…
こんなことが頭に浮かんでいた。あぁ、私は、動揺を割と楽しんでいる。ネガティブな感情でもあるけれども、なぜ私が「動揺」したのかを、説明しようと言葉を探しているのだ。
そんなことを考えていると、一人の先生が…
「動揺するのは楽しいですよね」
と笑って言っていた。


動揺するのは楽しい。


私もたぶん楽しい。
「動揺」するのは、<わたし>の予測外のことが生じてしまうからなのだ。
私の予測していないことが起こると私たちは「動揺」する。私たちは、自分の枠のようなものが出来上がっていて、その枠を壊しうるものが「動揺」なのだと思う。私の概念を攻撃してくるもの、私を広げる可能性のあるもの、ポジティブでもネガティブでもあり得るもの。


では、エロティックな「動揺」とは、なんだろうか?


例えば、私自身が異性愛だと信じていた(教育により洗脳されていた)頃、腹筋の割れた男性の姿への直感的な「動揺」があった。
若い先生がポロシャツからはちきれんばかりに出る二の腕の筋肉と白いチョークとその粉にも「動揺」した。
たいていの男性からは舐められたことのなかった身体の部位を、はじめて舐められたときの「動揺」。
そういった「動揺」の数々。
私は、なぜ「動揺」したのか。
私は「動揺」を恐れ、同時に「動揺」には直感的な正しさがあった。
「動揺」を私のものとして飲み込む可能性と、「動揺」が私を飲み込む可能性。
私は、「動揺」が私を飲み込む可能性に身体をゆだねた。


わたしは、動揺するのは楽しい。
あなたは、動揺するのは楽しい?


【参考文献】
セジウィック,イヴ・コゾフスキー. (1999). クローゼットの認識論 セクシュアリティの 20 世紀. 外岡尚美訳, 青土社.

[イラスト]
飯塚モスオ, twitterアカウント: @moscowmule_

にじいろらいと、という小さなグループを作り、小学校や中学校といった教育機関でLGBTを含むすべての人へ向けた性の多様性の講演をしています。公教育への予算の少なさから、外部講師への講師謝礼も非常に低いものとなっています。持続可能な活動のために、ご支援いただけると幸いです。