青森のにんにく

青森産のにんにくが買える人と買えない私

僕がよく会うセフレは、タワーマンションにすんでいる。
僕の1年の稼ぎ(相当低い)が、1ヶ月の家賃で飛んでしまうその人の家はとても快適だ。
マッサージチェアがある。広いバスタブもある。大きなテレビもある。コンシェルジュがいて、いつも「おはようございます、いってらっしゃいませ」と声をかけてくれる。
部屋に入るまでに3回も鍵を使わなければならなくて、少し不便だけれども、そのことを僕が愚痴っぽくもらすと、彼はとても楽しそうに笑う。


彼の住む家の近所にあるスーパーは百貨店系列で、お値段はどれも高いが新鮮なものが手に入る。にんにくを買おうと思っても、当然のように、青森産のにんにくしかなくて、「えぇと、これ買ってもいい?」と僕はお伺いをたててしまう。
中国産の3房で99円みたいなのはない。
彼は一房で249円もするにんにくを、当然のようにかごに放り込む。


彼はとても分別を丁寧にする。
プラスチックと紙ゴミを丁寧に分ける。
僕はそういうときに、あぁ、と思ってしまう。
僕はとてもゴミの分別への意識が低い。捨てるのを忘れてしまうことの方が怖くて、なんでもかんでも燃えるゴミで捨ててしまうのだ。分別ができないというよりは、適切な日に、適切なゴミを捨てるという行為がとてもストレスになって、そればっかり考えて生きるわけにもいかなくて、全て言い訳だというのはわかっているのだけれど、ともかく、どうにもこうにもゴミをちゃんと分別できない。
でも彼の家ではできる。なぜなら各階にゴミステーションがあって、ゴミは出したいときに出せるからだ。しかも玄関まで降りる必要がなくて、同じフロアで。月曜日の朝と木曜日の朝が燃えるゴミで、指定の場所に出して、ブルーのカラスよけのネットをあとで回収しなければいけなくて、水曜日は隔週で段ボールの日で、、、という僕の地域とは違うのだ。
また、野菜のクズゴミはシンクで自然と粉砕される。
どこに行くのか僕は知らないけれど、堆肥にでもなっているのだろうか。
とても機能的なシステムキッチンだ。


とても政治的に正しくて、僕はとても苦しい。
彼がドリップコーヒーの包みをプラスチックの袋に分別し、出がらしの粉は燃えるごみだよ、と僕にレクチャーするとき、それはとても政治的に、倫理的に正しいと思いながら、同時に、苦しいのだ。
青森産のにんにくが買えること、ごみの分別ができること。ごみがいつでも出せること。
ローカルに生きる。地産地消。環境に配慮。そういう言葉を聞くたびに、それができるお金持ちを私は密かに呪っている。


金融資本主義やグローバル経済の体制のなかで、その煽りを受けて、公教育への支出が減り、その結果安い単価で買い叩かれる講師としての私は、搾取されている損失分を奪い返すかのように、グローバルで安価な物を消費する。私は誰がなんと言おうと、にんにくに249円は払えない。私は、中国産のにんにくと、フィリピンのバナナと、韓国産のパプリカと、ベトナムの服とで出来ている。私の知的労働は奇妙なまでに時間労働だと見なされてしまうが、私は日々知識をアップデートしなくては生き残れない。
ゴミを分別する労力、どう分別するかを学ぶ時間、そういったことをする時間がない。賃金の支払われない時間を私はとても「生産的」に使わなければならない。「生産性」に抗うためのどんなオルタナティブがあるかという講義をするための「生産的」な理論をまなぶために、私は幾重にも捻れながら、効率よく学ぼうとしている。
金融資本主義というパートナーの束縛はとても強力で粘着質なのだ。
環境問題を未来に先送りする。私はその代わりに本を一ページ余分に読むことができる。いや、読むことを強いられている。
誰かの叫び声が届かないそれらのものを私は使う。私が生きるためにしていることは、私が遠くの叫び声を無視していることかもしれない。


青森県産のにんにくが買える人が、中国産のにんにくを買う人を意識が低いと笑うことを私は呪う。
青森県産のにんにくが、私達がローカルに生きることなのか。
中国産のにんにくを買うことが、デヴィッド・リカードが言う豊かな生活なのか?
私にはわからない。
にんにくは、どちらもにんにくで。土を作り、にんにくを作り、収穫し、運び、届け、売る、そういう恩恵に預かりながら、この過程の全ての<私>が、健康であることを私は確かに願っている。でも、そんなこと、可能なのだろうか。
にんにくに関わった人々の笑顔や涙や苦痛や望みや希望がくっついていれば、どれを買えばいいのか、もっとわかりやすいのに、と思う。
血塗られたにんにくも、血塗られたお金も、最後にはただのにんにくとお金になる。
私たちは、そうやって、みえなくして、みえないように、生きていく。
私は、青森産のにんにくを買いたいと思いながら、私の賃金では買えず、何かの搾取の連鎖を断ち切れない自分を呪っている、あるいは、呪われながらも生きてしまっている。

にじいろらいと、という小さなグループを作り、小学校や中学校といった教育機関でLGBTを含むすべての人へ向けた性の多様性の講演をしています。公教育への予算の少なさから、外部講師への講師謝礼も非常に低いものとなっています。持続可能な活動のために、ご支援いただけると幸いです。