カヌーとともに半世紀

1964東京オリンピック

 1964年の東京オリンピックでカヌーが正式種目だったことを知っている人は、今ならいるかもしれません。しかし、当時カヌーというものを知っている人はどれだけいたでしょう。小雨降る中、私はカヌーを見に、相模湖に行きました。子供のころ海洋少年団に入っていた私は、東京湾でカッターを漕いだり、たまに帆をあげてセーリングを楽しみました。そして、映画「宝島」を見て興奮し、ラジオドラマ「風雲黒潮丸」に耳を傾けていました。海、そして船が大好きな少年だったのです。だから、カヌーというものがあることは知っていました。しかし、手漕ぎボートは外堀公園にもあったし、ヨットは湘南海岸などに行けば見えましたが、カヌーは見ることができませんでした。オリンピックでカヌーがあると知ったときは胸を躍らせました。浪人中でしたが、絶対見に行くんだと決めていました。そして、実際に見たそれは、期待に反するものではありませんでした。

カヌー部を作る

 その後、しばらくカヌーには無縁でしたが、福井工業大学に赴任して、附属高校にカヌー部があることを知りました。当時は高校でカヌー部があるのは全国的にも珍しかったのですが、体育教師の女性が大学でカヌーの選手だったのです。私は早速練習を見せてほしいと言ったのですが、その先生はちょうど県外に嫁いで退職したばかりで、臨時に顧問を代行している先生が会ってくれて、艇があるのが三方五湖の1つ久々子湖にある県立青年の家のボートハウスで、学校から70キロ以上も離れていて、夏休みに合宿で練習するだけだと言うのでした。少しがっかりしましたが、夏休みを待つことにしました。夏休みが近付いたころ、その先生から、会ってほしい人がいるので応接室に来てほしいと連絡がありました。その人は重森俊道さんという方で、福井県カヌー協会の理事長でした。開口一番、大学にもカヌー部を作ってくださいと言うのです。艇や経費は協会で用意しますとのことでした。そして、高校の先生は、ついでに高校のカヌー部の面倒も見てもらえませんかと言いました。その先生はカヌーは全く知らず、困っていたのです。そこで私は研究室に出入りしていた学生に声をかけてみました。すると、4年生と1年生の2人が話に乗ってきました。未公認ながら、福井工業大学カヌー部の発足です。早速、重森理事長に連絡すると、とても喜んで、すぐに合宿の手配をしてくれました。

高校生に教えられながらの合宿

 大学生2人と高校生3人、そして私の6人で、1週間の合宿が始まりました。2段ベッドの8人部屋が用意されていて、艇やパドルは協会所有のものを自由に使って良いとのことでした。ただし、食事は自炊。近くに食べ物屋など全くなく、スーパーは数キロも離れていました。自転車を借りて食材を買い出しに行き、私を含めて順番に食事当番を決めて、作りました。そして、漕ぎ方を高校生に教えてもらいながらカヤックに挑戦。しかし、競技用の艇は乗るとすぐに転覆。シートを外して重心を低くしてもなかなか保てず、合宿が終わる頃になってやっと何とか乗れるようになったのでした。合宿最終日は県民体育祭。ボート競技の合間にレースを入れてもらい、来てくれたカヌー協会のメンバーと私が競技役員を務めました。高校生たちにタイムでは及びませんでしたが、大学生たちも何とか完漕できました。夏休みが終わってももっとやりたいというので、連休を利用して数回練習しました。10月になって、重森理事長から、琵琶湖で開かれるインカレ(全日本学生カヌー選手権大会)にオープン参加するようにと、連絡がありました。借艇の手配まですべてしてくれていたので、パドルだけ持って2人の学生と行きましたが、シングル(1人乗り)では転覆。ペア(2人乗り)で何とか完漕。それでも、学連の役員はじめ他校の学生たちも歓迎してくれ、翌年からの加盟が認められました。

カヌー部の発展

 翌年、高校生だった1人が大学に進学し、カヌー部に入ってきました。また、大学生の内1人は卒業しましたが、もう1人が友達を誘ってきてくれて、部員が数人になりました。また、学友会にも「同好会」という資格でしたが加入が認められ、使われていない古い木造校舎の1室を利用できるようになりました。そこに協会から借りた艇を置き、近くの川で練習ができるようになったのです。置けたのはわずかだったので、代わる代わる乗艇するしかありませんでしたが、平日でも練習できるようになりました。しかし、関カレ(関西学生カヌー選手権大会)やインカレではどのレースでも最下位でした。それでも、皆の意識は高まり、体育系の部活らしくなっていったのでした。そんな中、1977年に青森県で開催された国体で、カヌーがオープン種目になり、部員2人が出場しました。また、1981年の滋賀国体でもオープン種目となり、これにも出場しました。そんな実績が認められて、翌年正式に「カヌー部」となりました。私自身も、重森理事長のはからいで、中央競技団体の日本カヌー連盟の指導者研修会や審判講習会に出ていきました。そして、1982年の島根国体からカヌーが正式種目になったのです。これをきっかけに多くの高校にカヌー部ができ、県外からも経験者が入って来るようになりました。また、石川県との境に近い北潟湖の畔にキャンパスができて、小さいながらも艇庫を作ってもらいました。福井市内の本学キャンパスから車で40~50分ですが、中古の軽自動車を買ってやったのと学生が持っている車に乗り合わせて練習に行くようになりました。これによって、競技力は格段に向上しました。

ついに全国優勝

 1991年の石川国体に向けて強化していた石川県から2人の優秀な選手が入学してカヌー部に入ってきました。また、和歌山県からも有力な選手が入ってきました。いずれも私が日本カヌー連盟の指導者研修会や審判講習会で親しくなった先生が推薦してくれたのです。彼らを中心にカヌー部は実力を高めて、関カレなどで入賞することができるようにまでなってきました。そして、ついに1995年のインカレでK-4(4人乗りカヤック)1000mの種目で優勝しました。夢にまで見た全国優勝です。このとき、1人乗りでは誰も決勝にも進めなかったので、他校はびっくりしていました。チームワークの勝利といって良いでしょう。それによって自信をつけたのか、その後インカレや国体また日本選手権などで次々に入賞者を出すようになりました。

国際審判員に

 カヌー競技の審判は、国体や日本選手権など国内の大会では日本カヌー連盟の公認資格を持つ審判員が務めますが、国際的な大会では日本国内で開かれる場合でも各部署の主任は国際審判員の資格が必要です。1995年に山梨県の本栖湖で開かれた世界ジュニアカヌー選手権大会の折に国際審判員の資格試験があるので受験するようにと指示がありました。受験するには十分な実績がなければならないのですが、私はそれほどでもなかったのでびっくりしましたが、1993年から愛知県の三好池で開かれていた三好カップ国際レディースカヌー大会で審判を務めており、それが評価されたようです。急遽国際ルールを猛勉強して臨みました。試験は国際カヌー連盟の会長と事務総長の口頭試問の形で行われましたが、何とかクリアして日本で12番目の国際審判員になることができました。そして、日本国内で開かれた国際大会や韓国で開かれたアジアカヌー選手権大会などで審判を務めました。

ユニバーシアードの監督として

 2013年ロシアのカザンで開催された第27回ユニバーシアードで、カヌーが種目となりました。日本からは男子4名女子2名の選手、そして2名のコーチとともに私が監督として参加しました。ユニバーシアードは大学生のオリンピックともいわれ、若い世代の競技力向上や友好親善を目的として夏季・冬季とも2年おきに実施されますが、カヌーは毎回種目になるわけではなく、本当に久しぶりのことだったのです。メダル獲得をめざしていたのですが、主力選手が大会直前に怪我をしてしまい、残念ながら入賞はできませんでした。それでも、参加した選手たちは、その後国体や日本選手権で優勝したり、1人はオリンピックの代表になりました。私は、日本体育協会(現日本スポーツ協会)公認コーチの資格を持っており、世界大学選手権のチームリーダーを務めたことはありますが、ナショナルチームの指導などしたことはなかったので少し心配でした。しかし、優秀なコーチに助けられて、何とか役目を果たすことができました。

レジャーカヌーの愛好者としても

 今まで競技カヌーの話をしてきましたが、遊びのカヌーも楽しんでいます。特に、オープンデッキのカナディアンカヌーをゆっくり漕ぐのが好きで、自宅からほど近い九頭竜湖で乗っています。一時はジェットスキー(水上バイク)が走り回って危険でしたが、最近はあまり見かけません。その代わり、釣りのモーターボートがふえてきました。ただ、こちらは走り回るのが目的ではないので、カヌーを見るとスピードを緩めてくれますから、共存が可能です。九頭竜湖以外でも、愛媛や沖縄、長野などで行われたツーリング大会に参加したり、釧路湿原を漕ぎ下ったりもしました。九頭竜川も中流から下流は流れが緩やかなので、10km以上の川下りが楽しめます。また、シーカヤックで海を漕ぐのも楽しいものです。ただ、潮の流れに注意しないといけません。“往きは良いよい帰りは怖い”ということになりかねません。その点、福井県の嶺南地方は大きな若狭湾の中に小さな入り江が続き、初心者でも十分楽しめるのです。カヌーは、このように競技だけでなく、老若男女誰でもその技量に応じて楽しめるスポーツなのです。こんなカヌーに親しめたことはとても幸せだと思います。


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