あろうことか、生きている意味など。

それでも生きていてなんの文句もない。

別に特に不満があるわけでもない。そうしたら時間だけが過ぎてゆく。年をとってしまったのかもしれない。生きている意味などない、というごくありきたりな認識は何も救わない代わりに何も傷つけない。それでもこうして赤ちゃんが生まれ続ける限り、何かが続いていく。昔の人が残したこの街に散らばる痕跡を読み解いている暇などないから、1万年前からおんなじような形をした体を何回も何回も探し合っては触れ合って、またおんなじような体を産み落とす。

それでも生きていてなんの不思議もない。

世界はわたしの願いを大枠で聞き届ける。たしかにそういうふうにできているのだろうと思う。心の底から願っていないことは叶わない。焦りは嘘を願っていることからやってくる。願っている嘘は、他人にとっての本当。他人が願ったことに惑わされて、あ、それいいなと思ってしまったところから焦りは始まる。なにも付け加える必要のない自我を守り抜けば、なんの無理もない道筋が開かれていて、それはなんの理想も満たさないが、なんの毀損も起こさない。

それでも生きていてなんの不可能もない。

この世界には可能なことしか起こらない。不可能だと思っていることが不可能になるので、可能だと思っていることが可能になるので、たしかに時間はかかるかもしれないが、この世界にはなんでも起こるという知識を捨てる必要はない。私は不可能なものを求めるロマン主義が好きなのだ、と思っていたが、なんのことはない、不可能はやはりなかったのだ。空想は空想として可能的であり、現実は現実として可能的であり、可能は可能として現実的なのだ。そして現実は可能として空想的なのである。

それでも生きていてなんの全体もない。

ひとつひとつの部分をつなぎ合わせて私は世界に触れようとするが、つねに世界は過ぎ去り、言い換えれば創造されてゆくので、私が触れられるかと思う次の瞬間には遠ざかっているし、すでに私もそのつどの私でしかないから、全体としての世界という私の頭にこびりついた言葉がゆびさすものはどこにもなかったのだとしっかりと理解しなければ、生きるとはどういうことなのかかが分からないのではないかと、今の私は思っている。

それでも生きていてなんの意味もない。

意味はあると同時にない。意味はあると思っても、それは大抵の場合、ひとりひとりにとってだけの意味であって、そんな意味は他の人にとってはないのだから、もしあなたや私が、「これって意味あるの?」と思った瞬間に大抵の場合には、それに意味はないのだが、ときどき、私やあなたに意味を見出す他人が現れるので、事は厄介になる。それでも別に不満があるわけでもないし、厄介な事態にはなおさらなんの意味もないのだ。たぶん、私たちが悟りを開くためにそれらのメンドクサさは存在する。

それでも生きていてなんの不幸もない。

腰かけたら崩れ落ちそうなベンチがあって、誰も腰掛けることがない、永遠に腰かけられることがないベンチだとしたら、そこには文句も不思議も全体も意味もないが、不幸もないだろうと思い、そのベンチの足元に生えている緑の草が風に揺れているのがとてもふつうで、なんだかこういうものなんだなあと思ったとして、それが生きるということだとしても、なんの何もないのである。


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