愛とは世界を生かそうとする意志(2019.1.10.)

001. 実践していることはだんだんと強くなっていく、ので、愛することも実践していけば強くなるし、少なくともほかの気分を強める効果はない

002. たしかに宗教チックにすべてを愛すると言ったところで解決しないもんだいはあるかもしれないが、それは愛さなかったところで解決するものでもないような気がする

003. 独占とか所有、から、共有とか肯定へと愛概念を解き放っていくことが必要かと。つまり前者から後者へと絶えず開いていこうという気もちを忘れないこと。

004. 愛ってなんぞと考えることは愛することを強めるのではなく愛について考えることを強める、というところにすでにためらいがある。(いいえ、愛について考えることと愛することが両立することだってあるかもしれない)

005. 共有とか肯定へと開いていくと、世界全体という対象に到達する。しかし私達は世界を分節することからなかなか逃れていかない、それはなぜかは分からない、ほんとうに分からない。だから分けたそれぞれを本質とか定義とか言って正確に言い表したり区切ったりしようとしがちだ

006. そして個人という概念をいま僕らは持つ。個人を愛するということと石を愛するということとは、分節された対象を愛するということでは一緒だ。でもぼくたちはある行為をなんらかの動きから類推することで感じようとしがちだから、石から愛されていると感じることがむずかしい。

007. でも個人は動くから、愛されると感じることがいくらか簡単だと思ってしまいやすい、ほんとうはそんなことはないのかもしれないのに。そして個人という分節された対象の動きによって愛することを定義し始める。ここに存在から行為への道が始まってしまう

008. 愛することと愛されることとを、愛を感じているという一点からみることはできないか。世界を生かそうとする意志で満たされている瞬間があるとしよう。それが愛するときに訪れていることを確認しよう。それが愛されているときに訪れていることを確認しよう。そうやって愛を確認する触覚を強くしよう

009. この辺から、注意深く宗教チックな没入を否定もせずにしかし耽らないようにするという作業が始まる

010. 分節された対象を感じるという場面のみにおいて愛を考えることから抜け出したい。ここに愛を存在させることへと向かいたい。そうすれば人生という視点から愛がなくならないかもしれない

011. この心に映る世界は分節されゆくがしかし、全体性あるいは世界という概念をもっている。その事実が示すようなぼくらの認識の癖を、拒否する必要はない

012. 分節はなされているが、それに固執することなく愛することができる視点を探して、そこへ呼びかけていく、そうすると思いがけなく愛されることがあり、それに気づくことができるようになる

013. まず愛することへの練習があり、朝起きて自分に呼びかけること、つぎにそのときに愛を感じられるようになること、愛を感じているという一点を覚えること、愛されている瞬間が分かるようになること。これらのことは、分節された部分に対する云々を超えることができると知ることであり、そして自分も分節された対象であるのみではなく存在していると確認することだ

014. これこそが世界を感じるということであり、この意味での世界がそのまま私自身であり、これを生かそうとする意志が愛であり、それは練習することができ、ただの宗教ではなく、そして、そのためにこそ分節された対象を観察し、働きかけていけばよい。生きるというのはそういうことだとおもう。

(2019.1.11. 推敲2019.6.3.)

その2はこちら↓

愛は響かせるものだから発すればいい (愛について その2)|じゃぶとん @jabton_|note(ノート)https://note.mu/jabton/n/nfffc0a0e52e4

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