無理してバランスを取る必要もない(かもしれない)


いろんなことをする必要があるとき、それらの間でバランスを取ることが必要である、そんな気持ちになるときがある。

こちらはこの程度にしておいて、あちらの分の何かしらを残しておこう、というように。たとえば時間。客観的な時間に縛られて生きている人たちは、時計によってそれを測り、配分する。

複数のことをするために、それぞれに時間の長さを割り当てるのだ。そうやって細分化することで、人生は細切れの材料を組み替え続ける、ある種の超絶技巧による創作になる。

われわれは、人生をつくるが、そのつくり方は、細切れを組み合わせるという仕方いがいにはないのだろうか。細切れにしてそれをまた組み合わせて、全体としてどういうものができあがるか。それを評価するために、ひとは、覚えようとする。死にものぐるいで人生を記憶しようとする。記憶では追いつかない事柄たちを、記録しようとする。

それは、われわれにとって、うれしいことだろうか? それともメンドクサイことだろうか?

いつもいつも、われわれは記録されている。監視されている? いや、というよりも、照会されうる状態に置かれている。どうせ記録は莫大すぎて、常時監視するなんて無理なんだ。しかし、証拠が、いつでも取り出されうる。

これは、われわれにとって、うれしいことだろうか? それともメンドクサイことだろうか?

どちらの意味もありそうだ。うれしいことだ、とも言えるだろう。いろんなことの記録が、なくならない。思い出せる。確認できる。それはとても便利だ。一生のうちで、データを保存し続けることなど、余裕である。
他方でメンドクサイことだとも言えるだろう。世の中で生きていくとき、履歴を消せることは、心躍るようなことだ。新しい出発。そこで人は、見知らぬ人として、新鮮に興味をいだき合うことができる。しかし、記憶が、強すぎれば、共有されてしまえば、履歴を消せない。メンドクサイことが、起こるだろう。

うれしさとメンドクササ。

そのふたつを、切り離すことはできるか?

切り離すために、人は、バランスを取ろうとする。ほどよく覚え、ほどよく忘れる。それは、至極まっとうな方法だ。切り離しさることはできないかもしれない。しかし人は、バランスを取る。そして、バランスを取れたことにするのである。

これがわれわれのすごいところだ。じぶんたちがしたいように、できているかのごとくふるまう、それはあたかも、……あたかも何なのかな。

よく分からなくなってきた。


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今日はここまで……。

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