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けもフレ3シーズン2-4章カコ編:二人のカコの思い出話をしたい


「なぁ、カコ」
「また会えて、よかったな」



※この記事はシーズン2-4章カコ編のネタバレを含みます。



ヒトの社会とは不自由なものである。
その中で、君は動物園を訪れた時に放飼場で思い思いに過ごす動物達を見て「なんて自由なのだろう」と羨ましく思った事はあるだろうか。ヒトが日常社会で抱える様々な悩み事と無縁に過ごすけもの達を見ながら、そう同調して何となくでも癒される感覚があったなら、君は間違いなく生涯通して動物園へ足を運ぶ意義がある。人生の許す限り何度でも足を運んでほしい。

だが、そんな動物園も人によっては「動物達をこんな不自由な囲いの中で恣意的に見世物にするのは自然に反することであり、全ての動物は元の大自然の中で存在するべきだ」と主張する人物も目にすることはあるだろう。もっとも、ここで動物園の是非を問う気はないのでこれ以上語らないが。

重要なのは、本質的にヒトより圧倒的に不自由な世界へ置かれているはずのけもの達を見て「私達人間と比べて、なんと自由なのだろう」という憧れのような自由さを私達が確かに見出している、ということだ。

自由

これは結局のところ、私達人間の系譜が数万年かけて育て上げた知性の「自意識」からなる、様々な過去の後悔や未来への不安などの思い悩みを大小しがらみとして私達が常に持っており、そして動物園のけもの達はそんなものに縛られず、ただ今を過ごしている景色に自由さの憧れを見出しているのであり、真偽はどうあれけもの達の「今を生きる」時間へ溶け合うように意識を同調することで、一時でも自意識から逃れられることに私たちは癒やしを感じるのだろう。

つまり、この自意識の祝福と呪いは、精神がけものからほぼ完全にヒトへ昇華したアニマルガール達にも例外無く降りかかる。今回は、そういう話だ。


1.Hello,World

哺乳綱食肉目アライグマ科カコミスル属、作中の記録で2例目にアニマルガール化したとされるカコミスルのフレンズは、シーズン2の4章カコ編における初のアクシマ調査で、迷子となった当時のカコ博士と出会い、彼女の帰路を助けた流れで以降の調査隊にも同行することになる。無論、誰もこの少女としてアニマルガール化したカコミスルとは信じていないまま。

調査隊と出会ったカコミスルは同時に自己紹介を通じて「名前」の概念を学習する。前回の記事でも触れたが、この「名付け」は他の会話でも頻出するシナリオコアの一つであり、以降カコミスルは様々な事象をカコから教えてもらうことによって「名前で捉える」ことを学習し、同時に「私はカコミスルである」という自意識をここで確立することになる。

サンドスターという知恵の実を食べたアニマルガール達はその瞬間より人生の旅人となった、未来と幸運への淡い希望を託して。

2.Named

カコミスルはアクシマ調査の「お手伝い」を通じてカコ博士から様々なモノや気持ち、その場の状況に対する「名前」を次々と覚えていく。その上で、よりカコミスルが「名付け」に強い思い入れを持つ出来事が起こる。

梅雨時の様に、いつ明けるとも分からない雨がアクシマに降りしきる中、カコミスルはある「気付き」を得て一時的に失踪し、探しに来たカコ博士へ「自分の言葉で」心中を明かす。

止まない雨はない
すなわち
全ての出来事に終わりがある

なんだそんなもんか、とありふれた当然の気付きに思われるかもしれない。事実カコミスルも「今気づいたけど、ずっと知っていたことだった」と付け加えている。だが、彼女の自意識はもっと深淵を見つめていた。
だからこそ、次の問いかけは非常に重い。

ハッキリ言おう、これは「生まれるという事は死ぬということ、なのに何故生きるのだ?」という死の概念への問い掛けだ。

某アンパン的に言えば「なんのためにうまれて、なにをしていきるのか」(あの歌詞は『時は早く過ぎ、光る星は消える』の一節が詞の奥へ仕込まれているのが好きだ)乱暴に言うなら「どうせ死ぬのに、何故生きるのか」という自棄にも似た救いを求める問いだ。

カコミスルはこの気付きに対して「死」という言葉を知らないため、自分の知っている言葉を組み合わせて伝えようとし、当然カコ博士も曖昧な表現に面食らい、まさか「」の話をしているとは思わず困惑する。

結果的に、カコ博士はカコミスルの質問が分からないまま(内容的に、分からない方が良かっただろう)ひどく悲しそうな顔をしていたカコミスルの表情から推察し、悲しい事があったのかと質問すると「そのとおりなのだ!」と納得してこの場は丸く収まる。その表情には、自身が直視した死の概念に対する形容できない不安の全てが表れていたのだろう。

この会話でカコミスルが問うた「死の概念」に対してカコ博士は直接の答えを返していない(これに答えられるのはブッダぐらいだ)が、カコミスルが気持ちの整理だけで納得しているのは少し奇妙に写るかもしれない。

これは、カコミスルも自分の「気付き」をそのまま自分の言葉で話しているだけで、その答えがほしいよりは、この不安をどうにかしてほしい「ひどく悲しそうな、寂しそうな表情」という動揺が顔に出るほどに、本人も気づいていない「救ってくれ」のメッセージの方が強かったのだろう。結果「悲しい」という心を表す言葉だけでも、気持ちが整理されるのには十分だった。

3.Mind Mapping

大乗仏教に「仏性」という「心とは自分自身にあらず」の考え方がある。
君が泣いたり笑ったりの喜怒哀楽の感情を味わっている時、その瞬間の心と気持ちも自分自身だと自覚しているだろうか、普通の人ならそうだと自覚するだろう。

しかし仏教では「心」は本当の自分でなく、その心の飼い主として「自分自身という仏性を人間は別に持っている」と明確に定義する。

たとえ「心」が怒りや悲しみの暴風雨で吹き荒れていたとしても、それはあくまで「心」の働きによる感情であって自分自身ではなく、本当の自分は荒れ狂う「心」より奥の層で静かに見つめている存在ということ(らしい)。

ところが自分自身が飼い主でありながら「心」とは半ば制御不能であり、私達は怒りたくて怒る訳でもなく、泣きたくて泣く訳でもなく「心」よって自分自身の感情を常に振り回される。そして「自意識」による呪いの一つとして「心」が作り出す辛い感情に支配されている時も「自分自身だ」と心と同一化してしまうゆえの苦しみが存在する。

つまり、カコミスルはサンドスターによって昇華した知性と、それをヒトへ還元できる祝福を大いに喜んだが、同時に自意識の獲得によって肥大化した心と、自己の消失という概念など、けものの頃には無かった自意識の呪いと向き合わなければならなくなった。

4.SAVE

この記事は宗教セミナーのなんかではなく、別に仏教を信仰しろとかオーボンに帰省して家族とちゃんと会話しろとかオヒガンへお参りしろとかいう話ではない。いや事情が無ければ家族と会話はした方が良いかもしれないが。

だが、カコミスル自体が仏教の思想に近い行動原理で動いている、というのはある。上の「生きる者はやがて死ぬ」という気づきも、様々な事象を名前で捉えるのも、心を自身と切り離して向き合おうとするのもそうだ。

現代のカコミスルとしてのプロフィール文が「人助け」を前面に押し出していたり、作中もそれに基づいて行動しているのも、元動物が人懐っこくヒトの手助けをしていた歴史がある上で、大乗仏教に「まず自分より人を助けなさい」という実践目を通じて人々を手助けしながら説法を広める「方便」に近いものがある。

作中でも人助けに注力しながら説教意味深な気づきを述べるスタイルは、どこか通じる思想を感じさせる。

「悲しい」という気持ちを受け入れて死の不安を納得したのも、仏教では不安や怒りといった負の感情を制御するよりまず、心がその感情へ陥ったことを「本当の自分視点」で客観的に「私は今怒っている」と認識せよという所から始まる(眉唾な話だが、日常のイラッとした時に思い出せると意外に効果があるのでオススメだ)。

心が負の感情へ陥った時、まず「気づく」だけでもそれなりに効果があり、次に心が思い悩む(大抵は)どうしようもないものへ、名前を付けるのと同じ様にどういう視点を持てば気持ちが楽になるか、という気づきのプロセスを踏んでいく。

カコミスルは「悲しい」という言葉が「気づき」となり、不安に荒れ狂う心を「悲しい」という名付けの客観視で捉えた「心」を自身から切り離して向き合ったことで、一定の納得を得たという訳だ。古来の人々がオバケめいた形無き自然現象への実際コワイ畏怖に対して、形式化して名前を付けてきた歴史にもどこか似ている。

カコミスルはもともと自身が森羅万象の世界観を捉える事に長けていた素質もあり、この経験で前から興味を示していた「名付け」へ特に思い入れを持つようになり、カコ博士へ「もっと色んなことの名前を教えてほしい」と頼み込む。死に対する言葉にできない不安を「悲しい」という言葉で捉えられたのは、間違いなくカコミスルにとっての救いだったから。

「名前というのは大事なのだな、今の気持ちがよくわかるようになるのだ」という言葉はまさにこれを表している。

5.ego

「全ての出来事には終わりがある」「生きる者はやがて必ず死ぬ」カコミスルだけでなく、私も君もずっと前から知っている事であり、いわゆる「真理」というやつだ。これを説明したり答えようとすると本当に頭を丸めて涅槃を目指すなんかのブディストになるので触れないが、そもそもこういった不安はどこから抱くのかという話になる。

ここでも知性としての「自意識」が関わってくる。動物と人間は同じ様に「心」を持っているが、自意識の差において両者の「今を生きる」は決定的に意味が異なる。けもの達は目先の「お腹が空いた」や「安全な場所で眠りたい」といった「本当の意味での今」を生きているが、私達人間は常に過去と未来という概念を持ちながら「現在という今」を生きているという点だ。

例えば転んでケガをした時、けもの達は「痛い!」以上の心の反応は持たないだろうが、私達人間の場合はそれに加えて「こんな目に遭うなら今日は外出しなければ良かった」という過去への後悔や「このケガで今後の予定は大丈夫だろうか」という未来への不安を「現在の心」へと紐づける。

つまり、自意識は「過去と未来の自分」も「今現在の自分」として同一視しようとする心の働きであり、今現在の自分が満たされていても未来の自分が不満を持つ可能性の「不安」と、明確に不満があった過去の自分を今現在の自分が振り返ってアレコレと納得させようとする「後悔」となる。

後悔

欲求の面でも、例えば飢餓状態でもけもの達は今の食欲が満たせればひとまずは満足するが、自意識があるとそうもいかない。今の食欲は満たせても、明日、明後日、一週間後、一年後…今と同じ様に食べられるだろうか、という不安は未来まで無限大に広がっていく。そしてこの無限大な不安の行き着く先こそカコミスルの視た「死の認識」となる。

6.Ability

だが、自意識とは闇雲に心を息苦しくさせる存在ではなく、人間が人間たる所以である特殊能力の武器として、過去の後悔を今現在へ活かしたり、未来の不安へと備えることで文明を発展させてきた。

改めて、自意識の特殊能力とは「過去/現在/未来」の自分を全て一纏めに自分自身だと認識できることにある。これによって人間は「過去を想って今を生きる」ことができ「未来へ想いと知識を託す為に今を生きる」という意識を向けることが可能になった

この行動原理はカコミスルにも見られるようになる。サンドスター濃度の低下で死期を悟り始めたカコミスルは、カコ博士が何気なく口にした「思い出作り」という言葉に天啓を受けた様な反応を見せる。

カコミスルはカメラを「今じゃなくなった今(過去)をずっと残すための物」と解釈しているのを筆頭に、カコ博士があくまで記録用としか認識していない調査道具に「未来へ託すもの」という認識を見出していた。

同時に、カコミスルは一旦気持ちの整理を付けた「全てに終わりがある(自己の死)」について今までずっと考えていたのだと思う。「でも、別に終わりたいわけじゃないから、ちょっと悲しくて、寂しいのだ」という言葉は特にそれを象徴している。

生きる者はやがて死ぬ、楽しいとか悲しいとかの感情も(たとえそれが心の作り出す幻影だったとしても)死んでしまえば全て無かったことになる。その「始まる事は終わる事、なのに何故始まるのだ?」という真理と死を目の前にして、カコミスルが未来までの視点を含めて出した答えこそ「思い出なら終わらない」というキーワードになる。

輝きは、ずっと

生きる者は必ず死ぬ
ならば
生物でない記録へ生きた証を残せたら

再三になるが、カコミスルは世界観と心の感情を捉えること、またそれを言語化する素質に長けており、この特徴は過去/現代二人のカコミスルとも共通している。度々カコミスルが「その気持ち(想い)を大切にしろ」と他のフレンズへ助言するのは、自意識と心が生み出す無意識の感情を「本当の自分の視点」で確かに存在するのを自覚しろという意味でもある。

現代のカコミスルがホワイトサーバルへ旅立ち前の心構えを指南する際、カコミスルは「どんなに遠くへ行ってもここへ帰ってくること」と「もし戻る所が無いと帰って来れなくなる」の二つを説く。半分は物理的な当然の意味で、半分は精神的な「心の拠り所」というニュアンスだ。

これらも自意識による過去と未来を現在の心へ紐づける特殊能力に由来する。未来に何処かへ旅立ち何かを為そうとする時「己の帰る場所」に相当する心の拠り所が自身の中に確立していれば、それは現在の今で「帰りたい/帰る場所がある」というエネルギーとセーフティネットになる。

つまり、自意識を過去の想いへ重ね合わせて現在の心へのエネルギーとする、自意識としての祝福だ。「帰ってくる」とは必ずしも物理的な帰宅ではなく、起源の意識を思い起こさせる精神的な回帰を指している。

だからこそ、カコミスルは心の感情から切り離した「今ここにあるもの」と「楽しい気持ち」をちゃんと覚えておくのだとホワイトサーバルへ指南した。感情と心を切り離して向き合うのはネガティブな感情だけでなく「楽しい」や「好き」というポジティブな感情もまた「本当の自分の視点」で今ここに存在すると自覚することが「自身の帰る場所」を作り出すという意味合いになる

ネガティブな感情を切り離して向き合うのは少し訓練がいるが、ポジティブな感情の方はよく分からなければ分からないままでも良い。出来るにこした事はないが、無意識でちゃんとそれが出来ている人を私は多く見ている。

7.Proof of Existence

話を過去のカコミスルへと戻そう。
「思い出作り」に奔走する一人と一匹は着実に思い出を重ねていくが、カコ博士が何気なく口にした「信じられない」という言葉が一つのキッカケとなる。

カコ博士は目の前に居るカコミスル個人の存在を認識はしていても、科学者として「カコミスルのアニマルガール」の存在としては信じられない(アニマルガール化の瞬間を見た訳でもなく、そのプロセスと実験が確立していない以上、当然だ)というスタンスを表明する。

科学的に信じられない現象を信じるには実証実験を重ねる他にない。かつての天文学で地動説が信じられなかった様に、時代が進めば量子力学の様な理論的には信じられないようなものも、信じられるかもしれない。しかしそれには、時間が要る。

けれども、死期が迫るカコミスルに時間はもう無い。
思い出を重ねていっても「信じられない存在」とされたカコミスルは再度「どうしたら(自身の存在を)信じてもらえるのか」と問う。自分が決してサンドスターが見せた幻影ではなく、ここに生きていたという証明を。

8.Time Crisis

日暮れがやけに早かったのを覚えている。
探検に夢中で、時計を見るのを忘れていた、というのもあるだろうし、カコミスルの「時間がない」という言葉に、知らず知らず急せかされていたのもあるだろう。別に真に受けていたわけではない、いつもの回りくどい言葉だと思っていたから。ただ、今にして思えばあのとき私は、私ができるだけのことを精一杯やっていたのだろう。あの子を信じるために何が必要なのか 心の片隅でずっとずっと考え続けていた。
私たちには時間がなかったのだ。
そういうことにしておく。

カコ博士

私達は「時間が無い」という状況と焦燥に度々駆られる。
もう一時間あれば、もう一日あれば、もう一年あれば……そう言いつつ、得てしてどこかでは無意識に時間を無駄にしていく。時間について言えることは、人生で何かを為すには絶対的に時間は足りないということ、今与えられた時間すら懸命に生きない者へ「もっとの時間」を与える価値は一秒も無いという事くらいだ。

そういう意味では、カコミスルとカコ博士との最後の一日は、単なる思い出作りに留まらない、人生の一日として懸命に過ごしていた。その中でカコミスルは、サンドスターという知恵の実で自意識の祝福と呪いを持った己を俯瞰して「誰もが皆迷子である」「どこから来てどこへ行くのか、分からなくて当然」だと、人生観を自嘲気味に語る(無論、伝わってないが)。

D'où venons-nous? Que sommes-nous? Où allons-nous?

カコ博士も「カコミスルを信じてあげる為に何が必要なのか」をずっと自問し続け、最終的に科学者としての実験や理論ではない個人の感想として「楽しかった、あなたが何者であっても」という感情をカコミスルへ伝える。カコミスルの人生観はカコ博士には伝わらなかったが、カコ博士の想いは感情を捉える素養に長けたカコミスルには、しっかりと伝わった。

9. != X-Y-Z

最後の一日の帰り道。カコミスルが先導した初日と打って変わってカコ博士が先頭で歩く中、カコミスルは川に例えながら再度「思い出なら終わらない」という話をする。

「川はいつでも流れている」は『時の流れ』に相当する。川の水をすくって飲んで「美味しい」と思った感情は『現在』だが、それは飲んだ水と共にやがて「美味しかった」という『過去』の思い出となる。だがしかし、私達人間には自意識の祝福がある。「美味しかった」という思い出と感情があった過去の自分と、現在の自分を自意識で同一化し、心に当時の感情を回帰させることで『きっとまた会えるのだ』。

この感情が回帰する気持ちを
人間は『懐かしい』と名付けた

「ただいま」って、いいたくなるから

懐かしい、懐かしい、と思い出に浸れる事自体が自意識のなせる特殊能力の様な感情ではあるのだが、この「懐かしい」のエネルギーは「過去になった思い出」が、何らかの形で現在に蘇った時に絶大な威力を発揮する。

外部作品になるが、説明不要の名作である「オトナ帝国」はまさにそれをテーマとして狙って振りかざしてくるため、知っている人はよく分かると思う。それ以外でも、例えばシリーズ作品のゲームで過去作の体験や感情を想起させる演出は、上手く記憶と心へ紐づいた時に反則級のエモーショナルを誘発するため、君にも経験があるかもしれない。

話を戻して、S2-4章のクライマックスで『元に戻すのだ。この場所を、生まれたばかりの姿に』の言葉通り、アクシマが当時の「なんにもない場所」へ回帰した後、サンドスターによって環境が再生しつつある現代のアクシマへ、何の因果に導かれてかカコ博士は帰って来た。

環境が激変したアクシマで原住民のフレンズ達が困惑しながらも元の日常へ帰っていく中で、唯一カコ博士は「知ってる気がする」という懐かしさの気付きを皮切りに、ダイオウの樹を前にしてその気付きは確信へと変わる。

「思い出なら終わらない」
私達はずっと前から知ってはいるけど、あまりそうと自覚はせずに人生へ刻まれた数々の思い出へ懐かしさを馳せる。

だが「懐かしい過去」となったはずの思い出と直結したものを現代で目の前にした時、私達は「本当の自分の視点で心を見つめる」など言ってられないほどに、過去と現在の自意識が入り乱れることによって心の情緒がグチャグチャになるのだ。私は、これを自意識による過去と現在の感情がシナジーを持っている様なものだと自己解釈している。

カコ、泣いてるのか?
カコ。
日が沈むまで、
時間はまだいっぱいあるのだ。
気が済むまで、
いっぱい泣くといいのだ。

カコミスル

10.Α-Ω

S2-4章後編のアクシマ作戦中、カコ博士は打ち捨てられた溶岩洞窟を見て昔を思い出すなど、意識的な意味で「過去のアクシマへと帰っていた」。その上で洞窟を発見する手掛かりとなった手描きの地図は、正規の旧アクシマ地図の前身となる、アーカイブ化されずに残されたカコミスルの描いた地図である。

この地図のおかげで洞窟の発見に役立った現代のカコ博士は独り、現代のカコミスルへ相槌を打つと同時に、昔へと意識を向けて過去のカコミスルへの礼を口にする。そっくり、昔と同じ文言で。

現在
過去

アクシマ作戦中の現在を生きながら、カコ博士の意識は要所で過去のアクシマへと思いを馳せる、言うならば「帰りたい」という想い(当然そのままの意味ではないが)の自意識が度々「懐かしい」という意識的なタイムスリップを呼び起こしていたのだろう。過去をやり直したいかは別として「過去に帰ってみたい」という淡い憧れは、君も持った事があるかもしれない。

だから、きっと、ラストの『夢でも見てるみたい』は、深層心理で「過去のアクシマへ帰ってみたい」と願っていたカコ博士の夢が叶った形なのだと思う。

おかえり、カコ博士。


「なぁ、カコ」
「また会えて、よかったな」

カコミスル

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