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死刑廃止論

Twitter(政治垢)より

https://twitter.com/yaki311/status/1622414702503677952?s=20&t=Az8Tun49r2HHFtQyCpQ8Bw

連ツイを全文転載します。

何度でもしつこく繰り返します。 死刑制度は、それがあるだけで、殺人事件を増やすことはあっても減らすことはありません。 何故なら、死刑は行為そのものとしては紛れもなく「殺人の一種」だからです。アタマでいくら「ただの殺人とは別」と区別できても、心や体はそんなことで納得はしないのです。

まして、死刑を1件執行すれば、それだけで社会の雰囲気は「死刑=許される殺人」というものについて思考を巡らせて、「もしかしたら自分も死刑執行して良いかもしれない」と思い始める人間が出てきてしまうかもしれません。 何よりも、死刑は「殺されたから殺す」という連鎖そのものなのです。

昔々言われていた「目には目を、歯には歯を」という「応報刑思想*」は、それまでの「憎い奴悪い奴に対する刑罰としてならば何をやっても良い」という「無制限な報復」を諌める価値観として現れました。 が、もはやそんな大昔の価値観の更新に囚われていてはいけないのです。現代的に見れば、レベル低すぎ。

現代の世界は、一つの殺人が直接間接を問わず次の殺人に「連鎖」してしまう、ということに気づいています。 簡単な話で、「誰かが殺されたから別の誰かも殺されなければならない」という、言語化してもあまりにも非論理的な「社会の雰囲気」があるのです。

どんなに大層な正義や道理があったとしても、殺人という行為そのものをできる限り食い止めて減らしていくしか、自分が殺されない世界には到達できないのです。 たとえそれが「実現不可能な理想」でしかなかったとしても、世界をそこに寄せていく努力は常に不可欠なのです。

決してゼロにすることはできないけれど、それでもゼロにすることを目標として絶え間ない努力を続けることが求められる事柄、というのはそう多くないかもしれないけれど、確実にいくつかあります。 私たちはそれを「宿命」として捉え、粛々と続けていかなくてはなりません。

*「応報刑思想」について、補足…
それ自体が完全に否定されたわけではなく、民事とか窃盗罪とか「原状回復可能」な案件であれば、まさに「原状回復せよ」という形で発達してきています。
が、「原状回復」が不可能な殺人にそんな原則を無理に当てはめてはなりません。

発達してきた理由は、人命と財産の本質的な違いに気づかずに未分化な混同が起きていた初期の状態を、その後の探究と定義によって更新することができたからだと思います。

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