Jack

バンコク在住人事コンサルタント。Asian Identity 社CEO。ネスレ、リンク…

Jack

バンコク在住人事コンサルタント。Asian Identity 社CEO。ネスレ、リンク&モチベーション、グロービスを経て2014年にタイで起業。アジア×人事×経営。YouTubeチャンネル「リーダー道場」運営。著書『リーダーの悩みはすべて東洋思想で解決できる』

最近の記事

残るか、帰るか。~タイ起業10年記⑯

バンコクのロックダウン生活が始まって間もなく、4月初旬のことだった。 義母急逝の連絡。 家の中には動揺が走った。 通常なら、もちろん飛んで帰るところだ。 だが、今は世界中の飛行機がほとんど欠航している状態。 しかも、いちど日本に戻ったらタイに戻れる保証はない。 帰るか、残るか。どうする? さんざん悩んだ挙句、片道切符で日本に帰ることにした。 お義母さんを見送りたい。その一心での決断だった。 調べたら、インチョン経由の大韓航空がかろうじて飛んでいることがわかったので速攻

    • 「流れ星を捕まえるように」文章を書く~1か月間のブログ生活を終えて

      2月の1日~29日の1か月間、ブログを書くと決めて今日が最終日。 15人の仲間の皆さんと励ましあいながら、なんとか完走することができた。(皆さんの記事は #1か月間ブログ書くぞ のタグから読むことができます。) 途中から始めた「タイ起業10年記」はまだ続いているので、執筆はもう少し続けていくが、「毎日必ずポストする」というのは今日で少し緩めることにしたい。(しんどすぎるので笑) 1か月文章を書いてみて思うこと。それは、 「毎日書く中で、いろいろなシンクロニシティ(偶然

      • そして「バンコク封鎖日記」が始まった~タイ起業10年記⑮

        2020年のコロナ騒動は、僕らタイにいる日本人にもかなりの影響があった。 日本よりも厳しいロックダウンのせいで、生活は不自由になった。タイ全土に非常事態宣言が出て、移動も不自由になった。子供たちの学校も投稿停止になり、リモート授業に切り替わった。 駐在員は日本に帰れない・家族に会えない日々が続き、現地採用の方の少なくない人数は日本に帰った。そして僕ら中小起業家も、撤退・縮小などを含めた経営判断を求められた。 これは大変なことになる。 そう思った僕は、とにかくこの混乱の

        • 「1800万円のサイン」で手が震えた日~タイ起業10年記⑭

          最悪の状態の組織から脱するための「勇気」。 それが僕には必要だった。 そんな時、強制的に勇気を出さなくてはいけない出来事があった。 それは「オフィスの移転」だ。 先日書いたように、パートナーとのすれ違いもあって、共同で使っていたオフィスから出ることを決めた。2018年の後半ことだった。 もちろん、強制的に出たのではなく、自分の意志で出たのだ。 何かを変えたい。 環境を変えることで新しいスタートを切れるのではないかと期待した。 どうせ出るなら、みすぼらしいオフィスにはし

        残るか、帰るか。~タイ起業10年記⑯

        • 「流れ星を捕まえるように」文章を書く~1か月間のブログ生活を終えて

        • そして「バンコク封鎖日記」が始まった~タイ起業10年記⑮

        • 「1800万円のサイン」で手が震えた日~タイ起業10年記⑭

          「会社をつぶそう」と思った日~タイ起業10年記⑬

          この10年間、幸いにして倒産の危機というのはなかった。 お陰様でお客さんからの依頼は途切れることが無かった。 労働集約的ゆえにメチャクチャ儲かるビジネスではないが、少しずつ組織を大きくしながら、日々より良い仕事をしていくことに充実感を感じてきた。 ただ一度だけ、本気で「もう経営をやめたほうがいいんじゃないか」と弱気になったことがある。 それは、組織の信頼関係が崩れてしまった時だ。 弊社の企業理念の中に、「Show by Examle(範を示す)」という言葉がある。人事

          「会社をつぶそう」と思った日~タイ起業10年記⑬

          「感謝と貢献」。タイのスーパースター、ガンちゃんから学んだこと~タイ起業10年記⑫

          私がこの10年間でお世話になった恩人を二人挙げろ、と言われたら間違いなく前回書いた師匠の鶴田先生と、ガンちゃんを選ぶだろう。 ガンちゃんはタイにいる人であれば知らない人はいない有名人だ。 流暢な日本語を駆使し、通訳や司会を務めて多くの人を魅了している。 起業する際に、ガンちゃんは僕の会社の経営パートナーになってくれた。 タイ人無くしては経営ができないタイという国において、これ以上の強力な味方はいなかった。 起業してまもなく、僕は師匠の鶴田先生のセミナーに、彼を誘った。

          「感謝と貢献」。タイのスーパースター、ガンちゃんから学んだこと~タイ起業10年記⑫

          「参加者が2人しかいない研修」をどう運営するか?~タイ起業10年記⑪

          師匠の話をもう少しだけ続けたい。 私が彼から学んだことはあまりに多いのだ。 ーーー 研修・セミナー事業をやっているものにとっての恐怖の一つが「参加者が集まらないことへの恐れ」である。人が少ないと寂しい雰囲気になってしまうし、自社主催の研修であれば会社のイメージにも影響しかねない。 私の師匠はそんな修羅場を何度もくぐってきた。 参加者が「たった2人」の3日間の研修を運営したこともあるそうだ。 「研修の朝、参加者が会場のドアをあけると、椅子が2つ並んでいるだけ。参加者は驚

          「参加者が2人しかいない研修」をどう運営するか?~タイ起業10年記⑪

          「自分を信じろ。」すべてを変えた師匠との出会い~タイ起業10年記⑩

          起業してまもなく、「おススメの人物がいます」と知人から勧められ、会いに行った人物がいる。それが鶴田哲生先生だ。 彼との出会いが私の人生観を大きく変え、その後の起業家人生を支えてくれたと言っても過言ではない。 鶴田先生はベテランの研修講師で、長年にわたって想いを込めて研修事業をやってこられた方だ。 現在既に70歳を超えておられ、ご体調の問題もあり昨年会社をたたまれたが、今もお元気でいらっしゃる。私がお会いした時は、65歳でありながら物凄くエネルギッシュに研修講師をされてい

          「自分を信じろ。」すべてを変えた師匠との出会い~タイ起業10年記⑩

          なぜJackなのか?分人のススメ~タイ起業10年記⑨

          ところで、私は海外では「Jack」と名乗っている。 起業する前から使っているのでもう12年くらい名乗っていることになるが、実はこれは私の人生の最良の判断の一つではないかと思っている。 Jackと名乗ったきっかけは、「海外で働くうえで何かイングリッシュネームがあると良いよ」と勧められたから。 実際、シンガポールにいる中国人、韓国人、台湾人などの東アジア人の多くはEnglish Nameを持っている。 また、タイ人は生まれる時にニックネームを親からもらい、それが本名と変わ

          なぜJackなのか?分人のススメ~タイ起業10年記⑨

          「社員が辞める」ことに心をえぐられる~タイ起業10年記⑧

          前回、優秀なタイ人社員を採用でき活躍してくれた話を書いたが、残念ながら最終的には辞めてしまった。その時はだいぶ心が波立つ日々を過ごした。 もともと私は「人との別れ」が苦手なタイプだ。 昔から同僚の送別会では泣いてばかりいた。これまで仲間だった人と別々になることがとてもつらかったのだ。 だが、ジョブホッピング社会のタイでは、社員がいずれ辞めてしまうことは避けては通れない。今は「長くいてくれるに越したことは無いけど、5年いてくれたら成功」と割り切って考えるようにしている。

          「社員が辞める」ことに心をえぐられる~タイ起業10年記⑧

          2人の天才・ガードとジョン~タイ起業10年記⑧

          そんな採用活動で入社してくれたタイ人たちの中でも最も忘れられない存在、それがガードとジョンだ。 ガードとジョンは最も最初に入社したメンバーだ。前回記事の通り、たくさん面接した中の「当たり」人材だったが、今思い返してみてもよくこんな人材が取れたな、と思う。 とはいえ、創業初期の会社の採用にはアドバンテージがある。「これから始まる新しい船に乗組員になりませんか?」というメッセージが打ち出せるのだ。 特に弊社はビジョンとして「欧米のモノマネではない、新しいコンサルティングファ

          2人の天才・ガードとジョン~タイ起業10年記⑧

          タイ人と面接しまくった話~タイ起業10年記⑦

          事業をスタートしてまず重視したのは「採用」だ。 「早くチームを持て」という先輩のアドバイスに従い、稼いだお金は迷わず人材につぎ込もうと思った。何より、自分は人事屋なのでタイの人材マーケットに精通していなくては話にならない。 すぐに広告を出して、応募を集めた。 幸い、タイはジョブ掲示板に広告を出せば、とにかく応募は来る。大半は箸にも棒にもかからない人材だったりするが、100通、200通と見ていけば中には「当たり」がある。そこに行きつくまでとにかく履歴書を見まくり、面接をしま

          タイ人と面接しまくった話~タイ起業10年記⑦

          1日100バーツで暮らす生活~タイ起業10年記⑥

          さて、第1話でタイに渡った時の話に戻ろう。 「まずは3か月間限定で勝負する」と決めた自分は、とにかく3か月で結果を出さなくてはいけなかった。 友人のオフィスに机を一つだけ借り、そこで仕事をスタートした。 たった一人のスタートは寂しくもあり、また希望に満ち溢れてもいた。 その時に自分に課していたテーマが「1日100バーツ以上のお金を使わないで過ごす」というモノだった。 第1話で書いたように、潤沢なお金を持ってスタートしたわけでは無かった。起業した瞬間から貯金はどんどん減

          1日100バーツで暮らす生活~タイ起業10年記⑥

          "アジアは一つ"岡倉天心のメッセージ~タイ起業10年記⑤

          自分が起業する際に大いに影響を受けたのが、明治の思想家・岡倉天心だ。 社会科の教科書にも出てくる明治の偉人だが、彼は当時、日本有数のグローバル人材として世界で活躍した稀有な人物だった。天心の代表作『茶の本』に感銘を受けた私は、「アジアで自分は何をなすべきか」を考えるにあたり何度も彼の著作を読み込んだ。 前回書いたように、「欧米のモノマネに陥らず、アジア人としての矜持を持つこと」の大切さを100年以上前に説いていた人物、それが岡倉天心である。 1863年に横浜で生まれた天

          "アジアは一つ"岡倉天心のメッセージ~タイ起業10年記⑤

          シンガポールで子供を育てるべきか?~タイ起業10年記④

          起業当時、我が子の年齢は5歳と1歳。 それまでの2年をシンガポールで過ごし、外国人のお友達が出来たり、英語を学ばせることが出来たりと、「海外での子育てっていいな」と思っていた。東南アジアでのキャリアを継続したい理由の一つは、子育て環境という面も大きかった。 ただ自分にとってシンガポールは「子供を育て続けたい」という思う場所では無かった。シンガポールではなくタイを選んだのはそういう理由からだ。 先日、ある方との会話でこんな話題が出た。 私もそれに深く同意した。 もちろ

          シンガポールで子供を育てるべきか?~タイ起業10年記④

          タイ起業10年記③~なぜタイにコミットすると決めたのか

          起業する際、自分には2つの選択肢があった。 「シンガポールで起業するか、タイで起業するか」だ。 この2か国限定なのはそこにしか土地勘が無かったからだが、いずれ東南アジア全域でビジネスしてみたいという夢は持ちつつも、どちらがスタート地点として適切なのかを最初はあれこれと悩んだ。 それでも「タイを選ぶ」という結論は割と早めに出た。 そこには一つの原体験があったから。 ーーー 独立前、多くの日系企業を訪問して話を聞くのが僕の仕事だった。 数多くの工業団地を有するタイに

          タイ起業10年記③~なぜタイにコミットすると決めたのか