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岡倉天心先生の眠る北茨城五浦に行ってみた

少し前のことになるが、平成最後の日、令和を迎える前日に茨城県の五浦(いずら)という場所に行ってきた。五浦は少し北に行くともう福島県、という東京からは3時間くらいかかる場所だ。

五浦とはその名の通り五つの浦がある場所で、入り組んだ海岸線に波が打ち付け、とてもユニークな地形となっている。あいにくの雨だったが、大変に風光明媚な場所だった。

この場所を訪れた目的は、明治を代表する国際人であった岡倉天心の功績や思想に直接触れてみたいと思ったからだ。

岡倉天心(本名は岡倉覚三)は明治時代に中国、インドを旅して東洋美術を研究した思想家だ。彼は巧みな英語力と文章力で「東洋とは何か」を世界に向けて発信し、海外で高い評価を得た。「茶の本」「東洋の理想」などは日本文化、東洋文化を表す貴重な書物として今もなお価値が高い。

文明開花直後の横浜で幼少期を過ごした天心は、先見の明があった父の判断で英語の英才教育を受け、非常に高いレベルの英語力を身に着けた。のちにボストン美術館で東洋美術史を教える立場となったほどだ。

英語力について、天心は強い持論を持っていた。彼は欧米諸国を訪問するときも必ず和装を来ていた。しかし、弟子たちにはこう言っていたという。
「ただ和装を着れば良いというものではない。欧米人と対等に話せる英語力を身に着けたうえで、和装を着るから価値があるのだ」と。世界で勝負する日本人のプライドが感じられる話だ。

この聖徳太子のような独特な服装は自らデザインした美術学校の制服だ。日本人としてのアイデンティティを込めた服装だったが当時としてもあまりに奇抜で、学生たちには不評だったようだ。学生は恥ずかしいので通学の時は制服を着ず、学校の門の前で着替えていた、というエピソードを美術館の方が押してくれた。(天心記念美術館はスタッフの方の説明が素晴らしかった)

天心はもちろん挫折も経験した。若くして東京美術学校の校長になった天心。だがそのあまりに先鋭的な思想ゆえ、内部で確執を抱えてしまう。結果、追われるような形で校長の座を退く。

その経験を糧に天心は、弟子たちとともに新たな団体の設立を決意、東京の谷中に日本美術院を創設し、日本美術の革新に向けて取り組みを始める。その際、決意を込めた「院歌」を作成しているのだが、それが大変力強い。

谷中うぐいす 初音の血に染まる 紅梅花
堂々男子は死んでもよい
気骨侠骨 開落栄枯は何のその
堂々男子は死んでもよい

実に気骨あふれる院歌だ。この決意を胸に天心は日本文化・東洋文化を研究し、世界に発信していくことになる。(この院歌は弟子の横山大観の直筆が資料館に残されている。あいにく写真撮影はNGだった)

彼が遺した「Asia is One.(アジアは1つなり)」という言葉は、その後大東亜共栄圏のコピーとして用いられ、本人の意図とは異なった形で独り歩きしていった。しかし、彼が研究した日本とアジア的文化への考察は、今もなお示唆に富むものである。

彼の墓は、東京美術院が存在していた谷中と、五浦にも分骨され存在している。五浦の墓は非常に簡素なものだったが、しばらくそこにたたずみ思いを馳せてみた。

天心が亡くなってから100年以上が経っている。彼がそのポテンシャルを見た中国やインドは世界一の人口を抱え、世界をリードする立場となった。アジアの世紀と呼ばれる時代が訪れた今、我々は彼の英知をどう捉え直し、生かしていけるだろうか。

5年前にアジアで起業しようと決めたとき、日本を代表する国際人の一人である岡倉天心を思い浮かび、なんとなく彼のように生きてみたいなと思った。それから5年が経ち、彼が晩年を過ごした地を訪れ、個人的にはよい内省の機会となった。

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