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「僕だってそうなんだ」か、「ばかものよ」か。

最近、2つの好きな詩(歌詞)が頭をめぐっています。いずれも有名なやつです。

一つは、Mr.Childrenの「名もなき歌」。

あるがままの心で生きられぬ弱さを 誰かのせいにして過ごしてる
知らぬ間に築いてた 自分らしさの檻の中で もがいてるなら
僕だってそうなんだ 

もう一つは、茨木のり子の「自分の感受性くらい」。

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性ぐらい
自分で守れ
ばかものよ

この2つの詩は同じテーマを扱っていると思います。

自分らしさを貫いて生きていくのは大変なことです。

生きていれば傷つくことも沢山あります。傷つくと、それ以上傷つくのを恐れて自分の殻に閉じこもったり、偽りの自分を創ったりします。苛立ったり、気難しくなったりします。誰かのせいにしたり、周りを攻撃したりします。

全ての人が「あるがままの心」で生き、死んでいけるわけでは無いでしょう。多くの人は、悩み苦しみながら、生きているのではないかと思います。

先日10年ぶりに受けた自分のストレングスファインダーの1位は「共感性」(Empathy)でした。(前は違った気がする)

自分は、もがいている人を見ると、その人の気持ちが痛いほどわかるので、サポートしたくなる人間です。そうこうしているうちに、人事のコンサルタントというのが仕事になり、またそういう会社まで作ってしまいました。

きっと桜井和寿もストレングスファインダーを受けたら、出てくる強みはEmpathyでしょう。(知らんけど)

ただこの2つの詩を見て思うのは、そういう人を救うために取るべきアプローチは必ずしも一つではないようです。

「僕だってそうなんだ」と寄り添うのか。

「ばかものよ」と突き放すのか。

本当にその人のためになるのは、どちらのアプローチなのか。

そんなことを考えるこの頃です。(結論無し)


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