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泳ぎ方を身に着けたら、先生なんか忘れてしまえ

 以下に書くことは、水泳の話のようでいて、全く違うことを述べています。

 水泳が苦手だったり、やったことがない人は、自分のできる運動かゲームに当てはめてみてください。

 私が泳ぎ方を覚えたのは、水泳教室においてでした。

 最初は母に強制的に行かされ、嫌気がさしてやめて、その後、小学校の夏休みの指導で、泳げるようになりました。

 自分から意欲をもってやれば、できる。

 ともかく、背泳・クロール・平泳ぎは、難なくできるようになった。

 ところで、水泳指導の教師を覚えているかといったら、全く覚えていない。

 泳ぎ方を覚えたら、先生なんか忘れてかまわない。

 でも、多くの人は、自分の泳ぎ方を身に着けるより、先生を、それもいろんなタイプの先生を追いかけることに夢中になる。

 その方が楽だから。

 世の中にはいろんなことについての泳ぎ方がある。

 情報の保留の仕方だったり、本の読み方だったり、効率のいい運動方法だったり、脳の鍛え方だったり、人前でうまく話す方法だったり、歌い方だったり、お金の稼ぎ方だったり、健康法だったり。

 本を読んだり、ネットを見たり、誰かに教わったり、セミナーに行ったり、いろいろだろうが、泳ぎ方を身に着けたら、先生は忘れてしまっていい。

 もちろん、個人的に親しくなっても構わないが、ほどほどが望ましい。

 本質はそこにはないからだ。
 
 あるインタヴューで、ジョン・レノンは、メッセージを受け取るのにパッケージは不要だと述べている。

 自分の神聖さを思い出すのに、教会に行く必要はないし、寺や神社に詣でる必要もない。

 先人や賢人がそこここにメッセージを残している。

 だが、多くの人はそうしない。

 “メッセージの内容より、パッケージに共感するほうが楽なんだ・・・でも、そうすると完全に見失ってしまう。泳ぎの先生のことはどうでもいい。泳ぎ方を覚えるんだ。” (デヴィッド・シェフ『ジョン・レノン&オノ・ヨーコ プレイボーイ・インタヴュー1980完全版』シンコーミュージック・エンタテイメント、2020、p,237)

 ジョンは、ビートルズや1960年代にメッセージがあったとすれば、それは「泳ぎ方を覚えろ」に尽きると言う。

“そして、いったん泳ぎ方を覚えたら、あとは泳ぐことだ。” (同ページ)


 なぜか多くの人は、先生を見つけただけで、あるいは泳ぎ方を知っただけで、安心してしまう。

 キリスト教会で、そんな人をよく見たものである。

 そして、自分で歩くことをせず、先生との仲が長い時間にわたっているから、自分が信仰者として何かわかっているかのような勘違いして、他者を批判している人々が多かった。

 今では、そんな人たちは、恐れる必要はなく、哀れな人々だと思っている。

 歩いてきた人たちに何か言えるのは、歩いてきて、今も歩いている人だけだ。

 映画『マトリックス』で、ネオに向かって、モーフィアスはこんなことを言う。

道を知っていることと実際に歩くことは違う。
(There is a difference between knowing the path and walking the path.)

 歩き方を覚えたら、歩いてみなければ。

 そうやって、歩いてきて、いろいろ失敗もしたし、痛い目も見たし、辛い思いもしたけれど、これで良かったと思っている。

 先生を追いかけたり、泳ぎ方を知っただけで、泳ぐことをしなければ、きちんと泳ぐことをしてきた人たちと話が合わなくなってくる。

 なぜなら見ているもの、経験、感じていることが全く違うからだ。

 私が、多くのクリスチャンや社会洗脳にはまりこんでいる人々に対して、心理的な距離を感じる理由は様々あるが、一つは、自分で泳ぐことをしてきたからだと思う。

 でも、だから、先程触れた、ジョン・レノンとオノ・ヨーコのインタヴューにある、二人の言葉がハートに突き刺さるのだろう。

 山田貢司さんのブログ記事「階層構造2_脳トレ」にある次の言葉を、最近、思いめぐらしている。

"テレビは点けない。ラジオも聞かない。新聞も読まない。BGMは聴かない。
立体感のある音楽を聴く。心震えるる映画を観る。胸に突き刺さる本を読む。"

 「胸に突き刺さる本」を丁寧に読めば、たくさんの本を読む必要はないような氣がする。

 本がどこにあるかは、自分で探してみるしかない。

 ネットに在処は書いてないし、誰かに尋ねても、わかっている人なんていない。

 ジャンルが何かも、本に出会うまではわからない。

 少なくとも、そういう本との出会いを整えてくれる本屋に行く必要が、私にはあった。

 パッと開いたところで、ジョンがヨーコをドン・ファンに喩えていたのが決め手だった。

 カルロス・カスタネダがしばらく生活を共にしたヤキ・インディアンの呪術師の名である。

 ジョンは、ドン・ファンのようなヨーコについてこう述べている。

 “ぼくはとんでもないドン・ファンと結婚したんだ。そこがつらいところでもある。彼女はぼくに、自分の居場所を見つけなさいと言った。ドン・ファンは笑う必要がない。ドン・ファンはチャーミングでなくてもいい。ドン・ファンであればいい。ドン・ファンのまわりで起こることなんて、ドン・ファンには関係ないんだ。” (p,191)

 この一節で充分だった。



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