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自然界に保証なんてない!!

保証を求めるのは自然な感情だが

 皆さんが何かをする時、保証を求めますか?

 でも、自然界を見てみると、保証なんて全然ないですよね。

 どんなに食物を確保するのにすぐれた動物でも、気候条件や環境の変化で、食物確保ができなくなることはある。

 今日は食べられたけれど、明日も食べられるかはわからない。

 しかし、この逆が「正しい」と、多くの人が思い込まさている。

 確かに「これをすれば、必ずこうなる」「これをすれば、失敗しない」という確かな安心材料を求めるのは、自然な感情です。

 でも、それが、物事の捉え方を狭めたり、歪めたりする要因になってしまうこともある。

 例えば、事業を始めるとしましょう。

 Aさんのマインドセットは、「事業を継続していく上で、何かの保証・安心材料があるといい」というものです。

 Bさんのマインドセットは、「事業をやっていく上では、保証なんてない。だから、できることは全部やるし、自分の視野を広げ、学ぶことはどんどん学ぼう」だとします。

 どちらが冒険をするとか、危機をくぐり抜ける可能性が高いかといえば、Bさんですよね。

 バクチをやれと言っているわけではありません。

 何かを始める上で、それなりの準備をすることは大事です。

 でも、時に、準備の度を超えて、安心材料を探し始めて、「100%失敗しない道」を求め出すと、最初の意図からズレていく。

 そもそも、そんなものは自然界にはありません。

保証を求めるのも、洗脳の一種なのかも?

 去年の記事で書いたように、年金は洗脳と搾取のシステムだと思いますし、世の中、いろいろな「不安に対処する」と称する「保証」に溢れています。

 「恐ろしい感染症」に対処するという「薬」や「予防接種」も、そういう「保証」なのかもしれません。

 しかし、そもそも、「自然界には何の保証もない。人類の歴史の大半もそうだった」というのを、我々は、忘れている。

 あるいは忘れるように仕向けられているのかもしれません。

 不安を抱え、保証を求めるようになっている人を操作・洗脳するのは容易ですから。

 不安を抑える「薬」を与え、時に欲望を満たす「ご褒美」を与えることで、意のままにコントロールできるし、実際、メディアや広告を見ると、そういうものに満ち満ちていると思いませんか?

「保証」は新しい概念

 人類の歴史をカレンダーで表示した時、「保証」という概念が生まれてきたのは、多分、12/28ぐらいではないかと思います。

 多くの日々は、「保証なし」がデフォルトだった。

 「保証なし」が前提としてあるなら、何が正解・不正解とか、成功・失敗とも言えないので、個々人が自分の衝動に従って歩むしかない。

時代の激動期に保証・安心モデルは存在しない

 先日、ひょんなことから、私の母方の高祖父について調べました。

 二人いますが、いずれも、明治・大正の激動期を生きた人たちです。

 ある意味、今に似ている。

 つまり、前例という「保証」がなく、どっちの方向に自分の生き方を描いていったらいいのかの「成功モデル」がない。

 多くの人が、内なる衝動に従って歩いていった時代です。

 内村鑑三や岡倉天心、クリシュナムルティ、ルドルフ・シュタイナーが生きた時代でもあります。

 「生き方のモデル」「成功モデル」が存在しない時代です。

 私の高祖父の片方もそうでしたが、前例・保証・安心でガチガチに固まっている人たちからすると、クレイジーに見える行動を取ります。

 彼らにとっては、「いや、自分はこっちの道だと思う。保証も根拠もないけれど、こっちを行く」ということをやっているに過ぎない。

 成功するかも失敗するかもわからなかったのに、です。

激動期にオススメな本

 余談ですが、激動期、社会がどう変化していくか見えない時代に生きた人の本を読むことは、自分のあり方を見定めるヒントになるので、オススメです。

私のオススメは、

内村鑑三『代表的日本人』岩波文庫
岡倉天心『茶の本 日本の目覚め 東洋の理想』ちくま学芸文庫
クリシュナムルティ『最初で最後の自由』ナチュラルスピリット
シュタイナー『自由の哲学』『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』ちくま学芸文庫

です。

左脳的発想の限界を体験させられた半年間

 去年の9月末に居住区の就労支援センターに行き、今年1月から某企業が行っている就労支援プログラムに参加しています。

 その振り返りを、今、時々やっています。

 いろいろ不満な点があります。

 「何か保証があると、人生安心だよね」とか、「立派な価値観を持っていていいけれど、何よりも、まずお金が大事」と言う担当者が何人もいました。

 それに違和感・反発を覚えたけれど、その時は、はっきり何があって、そうなのかがわかりませんでした。

 前者はそもそも自然界の摂理と異なる幻想ですし(安心も究極幻想です。少なくとも、外側に求めていると、不安が増す一方です)、後者は「お札の染み崇拝教」の発想です。

 不換紙幣の奴隷であることに気付かないと、本当に大事な大事なところでブレます。

 ドーナツ目当てに変なおちゅうしゃを、体にぶちこんだりということもしでかします。

 まだはっきり確信できていないですが、「ひょっとして、この3ヶ月から半年は、自然の摂理に反した、左脳的な発想をしてきたのかな。これ、失敗パターンじゃね?」と、感じています。

 右脳と左脳のパワーの違いは、昨日の記事で述べました。

激動期こそ、両脳必要

 先ほど挙げた明治・大正の激動期を生きた人々は、憶測ですが、両脳を使えていたのではないかと考えています。

 少なくとも、外的な成功モデル・基準という左脳的発想が採用できない以上、直感というビッグデータで、自分の方角を定める以外になかったはずです。

 こういう時に邪魔になるのは、「他人の目」「常識・世間の価値観」「お金の不安」「未来への不安」などです。

 少なくとも、最初の二つよりも、自分の内なる衝動・志を信頼できないと、無責任な他人の声に惑わされてしまう。

 他人はいろいろ言いますよ、「そんなのは非常識だ」「保証を持って生きるのが人生だ」「そんな考えは甘いんだよ」とか、いろいろね。

 でも、それで、その言葉に従って、選択して、自分の魂が「いやだ~!!!」と言っている方向に行っても、その人たちは、責任取ってくれないんです。

 ただ、「この人たちとは価値観が違うな。見えているものが違うな」というのも見えてきて、自分がこれからどういう人たちと付き合っていきたいかがはっきりします。

 そういう意味では、無責任な外野にも、それなりの役割はあると言えます。

小さいところからでも、ワクワクすることをやっていく

 外野の声をいい意味で無視できるようになったら、自分の魂の底からやりたいこと、やりたくないことを見定める時です。

 それは、最初は、仕事には直結しないかもしれません。

 近所の猫とずっと話しているのがワクワクするなら、それをすればいい。

 気功修行をしているのが楽しいなら、それをすればいい。 

 私の場合は、こうしてnoteの文章を書いたり、気に入った台詞・格言を収集したりすることです。

 また、自分にとって未知な事柄を学ぶのも好きです。

 いろいろなエクササイズやワークを知ると、すぐに試してみたくもなる性分です。

 そういう小さいワクワクするものをやっていきながら、大きなワクワクするものを探していく。

 「大目標を見つける」という大目標を意図しておくといいかもしれません。

 やり方・方法は後からついてくるので、やりたいことをとにかくやってみる。


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