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オルガニストはいくつ脳を持っている?

 オルガン演奏を聞く度に、疑問に思うことがある。

 それについて書いてみたい。

 だが、その前に、私とオルガンとの出会いについて触れておく。

オルガンの習い始めの頃

 オルガンを習っていたことがある。

 所属教会にあるパイプオルガンを使用し、その頃、学生ではあったが、演奏家として活躍していた友人に教わった。

 私は、4歳でピアノを始め、6歳から17歳まで、先生に就いて習った。

 その後は、時間のある時に弾くぐらいで、ピアノに触れている時間の方が長い。

 だから、最初は、オルガンとピアノの違いにひどく戸惑ったし、何より、両足を動かすことに、体がなかなかついていけなかった。

楽器の仕組みの違い

 パイプオルガンは、パイプに風を送って音を出すので、ピアノのように鍵盤を叩いて音が出る楽器とは、仕組みが全く違う。
 
 力は要らない。

 ピアノに比べると、指の動きは非常に繊細だと言っていい。

 ただ、オルガンは足があるので、ある程度、足が長い方が、演奏には有利かもしれない。

 ピアノは、鍵盤を叩く力の度合いによって差はあるが、鍵盤を離しても、しばらくは残響がある。

 だが、オルガンは鍵盤を指が押している限り、ずっと音は残るが、指を離すと、すぐに消える。

 ピアノのような強弱はつけにくい。

 足のこともあったので、私は、ピアノとオルガンは、完全に別楽器と認識して、練習に臨んだものである。

 別の楽器とはいっても、両手の動かし方は、多少、ピアノの動きを流用した。

最初に触れた作品

 最初に渡されたのが、ディートリッヒ・ブクステフーデの「プレリュード ハ長調 BuxWV137」である。

 後で聞いたが、これは初心者が取り組むには、かなり難易度の高い作品である。

 この作品は、プレリュード・フーガ・シャコンヌの三セクションに分かれていて、私は主に、最初のプレリュードを練習した。

 楽譜付きの演奏動画があったので、こちらを御覧いただきたい。

 最初は、足から始まる。

 そして、途中から両手が加わる。

 だから、最初は、足だけ練習するとか、手だけ練習するとか、そういったことをやっていたが、一向に、手足同時にとは行かなかったので、別の作品をすることになった。

バッハのオルガン曲を練習する

 バッハの「プレリュードとフーガ ハ長調 BWV553」である。

 「8つの小前奏曲とフーガ」の最初の作品だ。

 これももちろん、両手・両足を使うが、ブクステフーデに比べると、弾きやすかったのを覚えている。

 だが、それでも、この作品も苦労したのを覚えている。

 これと並行して、バッハのコラール「我汝を呼ばわる、主イエス・キリストよ BWV639」を練習した。

 有名な作品なので、聞いたことのある人は多いかもしれない。

 この作品の本質を、克明に描いている小説の一節があるので、引用しよう。

 “バッハのコラールだけでなく、数ある宗教音楽のなかでも、これほど清明な敬虔さに満たされている曲はない。音楽を通じて神に奉仕するバッハの確信が、旋律として流露し、そのまま音楽に凝ったようだ。この音色には秋の気配に通じるものがある。聴いていると、長い生活でこびりつき積み重なった心の鱗や梁が秋風に吹き払われ、幼子の純粋さに返る。心は一本の幹のように天を向いて淋しげに立っている。その淋しさは人間がどこまでも《個》であることに由来している。この旋律はその根源的な淋しさ――神と自分のみあるという認識にいたる純化を表現している。そして、その静かな境地のなかから、絶望の果てに希望が芽生えるように、信仰によるやすらぎが湧きあがってくる。” (山之口洋『オルガニスト』新潮文庫p,20-21)

 この作品はそれほど長くないし、オルガンの基礎を習得した人なら、誰でも演奏できるだろう。

 だが、この曲は、見た目よりもはるかにむずかしい。

 先の小説で、登場人物の一人、ラインベルガー教授は、こう述べている。

 “この曲は見かけよりはるかに難しい。ギムナジウムの生徒だって練習すれば奏けるが、オルガニストとして聴衆に訴えるものをこの曲に盛るのはとても難しい。技巧の問題ではないからだ。この曲には技巧などというものを超えて、奏く者の音楽観や世界観がそのまま出てしまう” (同書p,21)

 もっと言えば、演奏者の人間性や本質まで出てしまうことがあり、そういう意味では、”恐ろしい作品”とも言えるかもしれない。

 私がオルガンを習っていた頃は、ここまでは求められなかったが、この作品を聞く度に、『オルガニスト』のこの一節を思い出す。

 こちらは、今年から日本で活動を始めた、オルガニストの大平健介の演奏である。

 動画編集で、手鍵盤と足鍵盤の動きがわかるようにされているが、通常、ここまでじっくり見ることはできない。

 コンサートホールであれ教会であれ、オルガンは、聴衆から離れたところにあり、また手元はほとんど見えないからだ。

 ピアノであれば、ピアニストと鍵盤は、座席によっては見えるが、オルガンでは、そういうことはほとんどない。

 少なくとも、足鍵盤の動きを見ることはできない。

 大平がコンサートでよく演奏する作品に、バッハの「我を憐みたまえ、おお主なる神よ BWV721」がある。

 これもまた、先程の、ラインベルガー教授の「この曲は見かけよりはるかに難しい」というのが当てはまる作品だと思う。

 オルガンは毎回違うので(パイプオルガンは、同じものが世界中にない。常に毎回、職人が、様々なことを考慮して丁寧に作っている)、毎回、違う作品を聞いている印象を抱いているが、それでも、常に聴衆に訴えるものを持っている演奏であることに、驚嘆する。

 オルガンを習っていた時は、「プレリュードとフーガ ハ長調 BWV553」「我汝を呼ばわる、主イエス・キリストよ BWV639」「我を憐みたまえ、おお主なる神よ BWV721」、この三曲を、主に練習していた。

 だから、非常に思い入れの深い作品であると同時に、これを優れた演奏にできる人には、賛嘆の念を抱く。

体と脳のつながり

 前置きが長くて申し訳ないが、ここからが本題である。
 
 ピアノを弾いていると言うと、両手が違う動きをすることについて、「どうなっているの?」と言う人が少なからずいた。

 しかし、オルガニストが両手だけでなく、両足を独立して動かしているのを見て、全く同じことを思ったものである。

 ピアニストが、体の左右で違う動きができるのは、左脳と右脳が独立して動いているからに他ならない。

 体の右半分は左脳と、体の左半分は右脳とリンクしているのは、御存知の通りだ。

 これを訓練によって、体の左右半分ずつが、独立して動けるようにしていく。

 いくら才能があろうと、体を実際に動かすトレーニングをしなければ、両手が独立した動きをすることはない。

 少なくとも、両脳がイーブンに動くような脳トレをするか、運動をする必要がある。

 オルガンにおいては、演奏者の両脳がイーブンに動いていると言える。

 しかも、非常に高度なレベルで機能していると推測している。

実は、三つか四つの脳があるのでは?と思う

 しかしそれでも、どこかにもう一つか二つ脳があるのではないか、時々、そんなことを思う。

 私は足鍵盤を時々見ないと弾けないが、プロになると、全く足を見ずに、複雑な動きをして、最後まで行くのが当然になる。

 おそらくオルガニストは、訓練によって、一般人以上に、両脳が同時並行で動くようにし、それで、両手両足が全く違う動きができるようになっているのだろう。

 もし機会があれば、足鍵盤の動き――動画編集で見られるようにしているものがある――を見てみるといい。

 脳と体の驚異的な動きに、瞠目するだろう。

山田さんへの関心で芽生えた興味

 脳と体のつながり、また脳トレによってできることが増えることについては、最近知った山田貢司さんへの関心で芽生えた興味である。

 我々の脳には、使われていない部位や能力がたくさんあるので、脳トレをしていると、また、両脳を並行的に使っている人を見ると、何かもっといろんなことができるのではないかというワクワクを感じる。

 最後に、脳幹主体にし、両脳を並行的に使えるようにする山田貢司さんの音源を載せる。


脳波をθ波にし、脳幹主体にする音源

 私たちの多くの脳波はβ波であり、前頭葉に主体がある状態である。

 瞑想を長く続けている人は、Α波か、θ波である(私も多くの場合、Α波)。

 この音源を聞くことで、簡単に、脳波を下げることができる。

 定期的に聞き、脳波の下がった、脳幹主体の状態が定在すれば、いろいろな変化を体験するかもしれない。


イルカ脳 

 この音源を聞き続けていると、段々、自分の左右の二つの脳を感じるようになってくる。

 基本的な瞑想や内観と同様の効果が得られる。

頭が良い状態に誘導するサウンド


 左脳に閉じ込められ、前頭葉優位状態のままでは、楽器演奏に支障があるだけでなく、「考える」ことすら、狭いものになってしまうと、最近、感じる。

 垂直次元や立体的な視野を持つには、全脳を使うことが不可欠である。

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