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沈黙と共に語る

 現代では、誰もがいろんな媒体で、自分の表現したいことを表現し、言いたいことを言えるようになった。

 もちろん、その社会が民主的で、言論の自由が確保されている限りというのは言うまでもない。

 ただ、それが、自分の内奥から出るものなのか、それとも「何ものかに言わされているのか」を、慎重に区別し、反省することが必要かもしれないと、思うことがある。

 「言語は、単にファシスト的なのである。というのも、ファシズムとは、何かを言わせまいとするものではなく、何かを強制的に言わせるものだからである。」
 (ロラン・バルト『文学の記号学 コレージュ・ド・フランス開講講義』みすず書房、1998(1978)、p,15)

 初めてこの一節を見た時、その鋭さに胸を突かれ、しばらく沈黙してしまった。

 もしかすると、その沈黙こそが、自分に必要なものなのかもしれない。

 精神科医で批評家のマックス・ピカートは、沈黙をめぐる書でこう述べている。

 「沈黙は言葉なくしても存在し得る。しかし、沈黙なくして言葉は存在し得ない。もしも言葉に沈黙の背景がなければ、言葉は深さを失ってしまうであろう。」
(マックス・ピカート『沈黙の世界』みすず書房、2014、p,17)

 和尚がどこかで、自分は常に沈黙と共に語ると述べている。

 誰かの心に残るのは、沈黙と共にある言葉なのかもしれない。

 結局、普段、自分の生活に沈黙があるのか、それとも喧噪だらけの無味乾燥な言葉なのかという、あり方が問われていることになる。

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