[鎌倉殿の13人が生まれる前] 保元の乱(前編)
さて、今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は鎌倉幕府の権力者、北条義時を主人公にした大河ドラマです。主演は小栗旬が勤めます。
時は平安末期、平清盛が全盛を誇っていた時代から物語は始まります。
では、なぜ清盛が全盛を極めたのでしょうか?これを平安末期に起こった二つの乱を中心に見ていきたいと思います。
今回紹介するのは、保元の乱です。
この乱が起こった理由は複雑なのでしっかりと解説していきたいと思います。
1.鳥羽法皇院政の時代
保元の乱が起こる前、1129年から1156年まで鳥羽法皇が院政で実権を握っていました。
院政というのは簡潔にいうと、天皇が皇位を譲って太上天皇(上皇)となり、天皇の代わりに政務を行うことです。要は天皇の代わりに権力を握り、政務を行うということです。
この時代は天皇はもはや形だけのもので、政治的な実権はないのです。
さて、この時に天皇に即位していたのが崇徳天皇です。
この崇徳天皇の皇位継承で問題が生じます。
2.近衛天皇即位
さて、崇徳天皇は自分が退位した後自分の子供に継承させ、自分が院政を敷こうと考えていました。
しかし、鳥羽法皇はまだまだ実権を握りたいと考えていたのです。
なので、鳥羽法皇は永治元年(1141年)に崇徳天皇を退位させ、崇徳天皇の腹違いの弟である近衛天皇を即位させました。
天皇が弟では将来院政を行うことは不可能であり、崇徳天皇としては大きすぎる遺恨となったのです。これにより、親である鳥羽法皇が引き続き院政を敷き、実権をにぎりつづけたのです。
翌年には得子呪詛(近衛天皇の母である藤原得子を呪おうとした)の嫌疑で待賢門院(崇徳天皇の母)は出家に追い込まれ、崇徳上皇の外戚である閑院流徳大寺家の勢力は後退しました。
まだまだ、崇徳天皇の苦痛は終わらないのです。
3.近衛天皇崩御。しかし・・・
近衛天皇が即位したが病弱だったため、1155年にわずか17歳で崩御してしまいます。しかも、近衛天皇には子がいません。
いよいよ崇徳上皇の院政かと思われたが、ここでまたしても鳥羽法皇が崇徳上皇と血を分けた弟の後白河天皇が即位します。
これは、近衛天皇の母である藤原得子の養子の守仁親王(のちの二条天皇)に皇位継承をいずれさせるために、中継ぎとして後白河天皇が即位したのです。
先ほども話しましたが、天皇が弟では将来院政を行うことは不可能であるため、崇徳上皇は院政を行う道が閉ざされました。
後白河天皇を即位させた理由には諸説あり、鳥羽法皇が守仁親王が天皇になった際も実権を握りたかったとか、崇徳上皇が嫌いでとにかく実権を握らせたくなかったなどの説があります。
即位した後白河天皇ですが、のちに「日本一の大天狗」とまで呼ばれた方だが、即位当初は政治に全く興味がなかったようで、「今様」という歌謡にハマっていて遊び呆けていました。いわゆるチャランポランな人だったようです。
こうして、後白河天皇時代にも鳥羽法皇が政権をにぎり続けていたのです。
4.鳥羽法皇の崩御
後白河天皇でも院政を敷いていた鳥羽法皇が1156年に崩御します。
このことにより、今まで我慢してきた崇徳上皇の不満が一気に爆発し、後白河天皇と崇徳上皇による権力争いが起こります。これが保元の乱の発端です。
さらにこの戦は摂関家、平氏、源氏をも巻き込み、二分化する争いにもなるのです。
上記写真は、保元の乱で主だった貴族、武士の名前を載せています。
見てわかるように親子や兄弟、叔父甥などで争う関係になってしまったのです。
ここからどういった結果になるのかは後編に続きますので、どうぞお楽しみに!
後編は明日もしくは明後日に投稿いたします。よろしくお願いします。
ありがとうございました。ほな、また〜
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