「嗚呼、美しき日本教育」2018 2/16

HTMLの勉強を少しばかりしていると、わからない数学単語が出てきたりする。僕はもう大学1年、もうすぐ2年生になるわけだが、変数、関数がいまいちわかっていなかった。今日見つけて、わからなかったから調べた。見つけてなかったのなら、これからも知らないままだっただろう。

中学レベルの数学が、いまになってもキチンと頭に入っていなかったという事は、これまでもわからなかった、或いはうろ覚えだったという事だ。高校は総合学科で単位制だった為、早めに数学に見切りをつけて勉強しなかったせいもあるかもしれない。だとしても他の科目を真面目にやっていたかと聞かれると怪しい・・・

中学、高校の勉強不足がツケになっていまに襲ってくる。いざ勉強に励もうとすると足枷となってyoutubeを開かせたり、Twitterを開かせたりしてくる。身に染み付いてしまった悪癖だ。自分でも見るに耐えない。何をやっているんだ俺は。
かと言って中学、高校の時に「大事だから勉強しろ」と耳にタコができるくらい聞かされてきたはずだ。それでもやらなかったのは、どう考えても実感がなかったからに他ならない。

数学はたまにパズルを解いてるようで楽しかったが、国語だとか、理解だとか、楽しくもないが強制的にやらされる、よくわからない科目に関しては楽しくともなんともない。授業が受動的だというのもあるだろう。必須だといわて、受けたくもない授業のスケジュール表を渡された。

そもそも学校の定義とは「ある目的に沿って、学生・生徒・児童を集め、一定の方式によって教師が継続的に教育を与える施設。」なのだと。つまり公務員を育てるための機関が義務教育での学校の本来の姿だ。

そこから高校、大学と様々な分野に広がってゆく。そこでやっと商業や美術、体育、経済など社会に絶対必要な能力から、「本当にそんなものにいるのか?」という分野にまで広がる。

おかしい。根本的におかしい。社会はそれぞれの分野の専門家によって成り立っている。中途半端に全ての学術分野の50%の知識がある人なんていらない。それぞれの分野の100%の理解を持っている人を集めたほうが、より良い結果が見込める。それがプロフェッショナルという人だ。プロフェッショナルが求められる社会だ。
ではなぜ義務教育の9年間でわざわざ様々な教科をほぼ平等に勉強させるのだろうか。

小学校の授業で生きていく上で必要な授業は多いだろう。漢字の読み書きができなければロクにコミュニケーションはとれないし、算数を習わなければ、駄菓子屋に行ってもいま持ってるお金でどれが買えるかわからなくなってしまう。確かに小学校の勉強科目で重要なものは多い。小学校の授業はいわゆる一般教養と呼ばれる部分も多い。

しかし中学生になってまでリコーダーを吹きたいという人は一体何%ほどなのだろうか?音楽家を目指したい人は三平方の定理など勉強して、その夢の実現に役に立つのだろうか?プロのスポーツ選手を目指す人が顕微鏡でミジンコを見つけて足が速くなるだろうか?

中学勉強をは小学校勉強の応用である。一般教養の域を出ている。ぜったい勉強すべきではないものもある。

高校でさえそうだ。惰性のまま続けた無意味な中学洗脳によって、普通科というなんの特色もない中学の延長の様な青春が待っている。

それに根本的な問題の一つに、受動的な勉強ほうがある。ただ聞いて答えるだけの、AIの様な学習法だ。ただこんなの当たり前だ。公務員を作るためなのだから能動的な能力なんて必要ない。むしろ能動的に動いて、正論を言い、根性論で全てを片付け、若い命をこき使う諸悪の根源の様な上司様の機嫌でも損ねたら大変だ。そのためにも、受動的に、機械を組み立てる様に、学校教育を行わなければならないのだ。

なんと日本らしく、謙虚で、美しい日本の教育だろう!こんな日本の教育を誇ろう!来世に語り継ごう!日本列島が地図から消える日まで!


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