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カーニバルの起源

神に祈る時ですら、踊り手たちははめを外していまう。

影響力のあるアウグスティヌス(354-430)もその意見の持ち主の一人だった。彼は若い頃ローマの剣闘士競技を楽しんだと告白しているが、踊りに対しては、激しく放蕩なものとしての見方である。賛美歌を聴きながらでも踊ることは禁止されたが、それでもダンスを非難することはできない(聖書と矛盾が生じる)彼は、しぶしぶ「踊るものには、踊らせよ」と最小限の許可を与えていた。彼の理想は、殉教者キプリアヌスのような肉体を清めるような踊りで、まさに魂の踊りであったとある。

5世紀から8世紀のビザンチン派の建築による教会のモザイク画に描かれるような慎ましい踊りこそがお好みであったであろう。

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6世紀以降、恥知らずなダンスは禁止され、淫らな絵画や音楽も厳しく禁止された。しかし、西洋の教会におけるダンスの地位はいつも不安定であった。理由はコントロール化に置くことが難しいことであろう。絵画、モザイク、ステンドグラス、彫刻などは、不適当だとなれば仕まうなり、覆い被せれば良い訳で、聖歌隊は、楽譜があろうがなかろうが音階上の音で歌うしかない。しかし、踊る体は予測不可能で、他のものの身体を完全に支配することはできない。4世紀初頭の「異教徒の悪い習慣」の名残である悪魔のダンスとの関係だとも考えられる。

1000年以上にもわたり、教会は悪いダンスを非難し続け、1200年から1500年の間はとくに厳しく禁じられたとされる。ただ、西洋の教会は全く禁じていた訳ではなく、儀式の際の踊りに細かい指示を与えていたのである。

フランス、ドイツ、イタリア、イギリスの教会には様々な色の石で作られた、巨大迷路がある。有名なものがシャルトル大聖堂のもの。

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もちろんこれは単なる模様ではなく。ダンスで使われていたもので、リーダーの後に続き、旅を象徴したダンスであったようだ。悪魔の支配する国を通り抜け、約束の地エルサレム、あるいは天国にたどり着く神秘的な旅を表現している。これを真似たものがペロタ(スペインや中南米で行われるハイアライに似た球技)

ペロタは祭祀儀礼だったとされ,テニスの起源となるもの。

この動画から全くどんなダンスか想像がつかないが(笑)

記述によると、復活祭の日曜日に、手を繋いだ信者を教会の長老が率いて、賛美歌を歌いながら身廊の中の迷路を巡る。大きなボールを持ち、他の踊り手と投げあったとされ、スリーステップで飛び跳ねる、三歩進んで一歩下がる動きもあったとされる。

(どんなん!?ドッジボールしながらステップしてるみたいな感じかな、汗)

迷路ダンスの他にも。中世後期の教会でよく行われた儀式的ダンスは、教会の拝廊で行われる、秘儀劇や道徳劇、振り付けされた少年聖歌隊の行進などがあり。15世紀セビリヤでは、6人の少年が金箔の翼をつけた天使に扮しカスタネットを叩きながら踊った。(この辺りはフラメンコ、パリージョの起因ではないだろうか)

これが良いダンスとされるなら、悪いダンスはどうなっていったのか?

中世の教会は日常の生活の全てを管理していたが、監視が甘い場所ももちろん存在し、聖と俗をはっきり分ける厳しい二分割は、そもそもキリスト教がローマ帝国で迫害されながら始まったことに起因する。

この二分割がキリスト教の本質ともいえる。「それではカエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」(マタイ22:21)

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人が望むべき霊的な生命と、己が解放する物質社会(肉体も含む)をはっきり分けることにより、教会では許されないダンスも生き残ったのである。

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※ヨーロッパ都市での公共の場所は、宗教的なセレモニーに使われるために作られていることが多い『サン・マルコ広場の行列』の絵画。カーニバルで行進的に演出されるのに起因している可能性が高い。

ヨーロッパで今も残るダンスは、キリスト教以前の季節際やその土地に伝わる神の祭りのダンスで、しばしば荒々しいものが多く、旋回やスタンプなども含む。男女は近くで共に踊る。これを聖職者たちは、禁ずるのではなく、古い祭りの名前をつけて、キリスト教の行事に取り込んでいった。このことがのちのヨーロッパに純粋に世俗的ダンスが誕生していくきっかけとなる。

四句祭に行われていたカーニバルの踊りは、豊神祭(奴隷と主人が一時役割を入れ替え、お祭り騒ぎが町を支配する)に起源があるという学者もいる。

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※『謝肉祭と四旬節の喧嘩』ピーテル・ブリューゲル

こちらの代表作を見ても、乱痴気騒ぎが見て取れる。

そして、その行いから、また非難され、たびたび禁止されるものの、また抑えきれずにヨーロッパ中に生き残る。

キリスト教の苦行と人々の踊りたい衝動は様々な形で現れた。

1348年〜1351年に大流行したペストは、人口の3分の1が死亡したが、その時にも苦行者たちが現れた、キリストや聖母マリアに届くことを願い、自分の身体を皮や縄で鞭打ちにするもので、伝染病の蔓延を終わらす祈願の行動である。この鞭打ち派は社会秩序の乱れを呼び鎮圧される。

このような伝染病禍での行動は、現在のコロナ禍では想像できないが、情報が全く不足していたであろう当時の人の行動として納得することができる。神にもすがる思い出あったであろう。

次回は、そんな流行り病によって、踊り狂って死んでしまう病気があった話をしたいと思う。もしかしたらこちらの映画は、この歴史が発想元かもしれない。

狂気の沙汰には、苦行と踊りがつきものなのか?



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